エヴァに大人はいなかった

※シン・エヴァネタバレ含むため閲覧ご注意ください。



シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきた。Qを観てから10年以上経過していることに驚きだが、いざ最終章が始まると前作の出来事がこの間のように感じたくらい、熱量は衰えていなかった。

さて、シン・エヴァの全体的な感想としては大変満足のいく内容だった。TV版や旧劇、新劇3作の伏線をほぼ回収してくれたように感じるし、何よりどういう形であれ登場人物たちが救われてくれたのが観ていて熱くなる展開だった。その上で特に良かったと思うのが、作品に出てくる大人たちだ。

エヴァといえばシンジやレイ、アスカたちパイロットに目が行きがちなのだが、実際新劇序・破鑑賞時の私もそうだったが、Qを終えてTV版を再履修したところで、とりわけミサトやリツコ、加持などの大人たちに注目するようになった。

きっかけはQがテレビで放送されていたときだったと思う。ツイッターで感想を流し見しながら観賞していると、ミサトに対して批判的なコメントがまあまあ見受けられたのだ。破で「行きなさいシンジくん!」と後押しした結果、ニア・サードインパクトを起こす引き金となり、結果Qの14年後の世界では「何もしないで」と冷たくあしらう、その一連の流れがあまりにも無責任だという感想がちらほら流れてきた。確かに話の流れだけでは責任も何もない、シンジが悪だとすればミサトも少なからず悪であるといえるだろう。しかし、私の中でどうにもこの無責任というのが腑に落ちなかった。

ミサトの年齢は破までの時点で二十代後半、アラサー世代だ。私とほぼ年齢の変わらない女性なのだ。とはいえネルフでは高い地位を持ち、部下を多く従える上官でもある。他のフィクション作品に登場する大人たちも二十代で組織の上位に立つ人物が多くいる。大抵そういう上官はピンチの時も狼狽えず状況を正確に判断し、的確に部下へ指示を下す完璧な人物像であることが当然となっている。ミサトもネルフ内では多少大胆ながらも部下やパイロットに命令する立派な上官だ。ただ、仕事以外でも完璧なわけではない。シンジとの生活シーンではだらしない姿も見せるし、加持やリツコとは複雑な関係も見せている。悩んだり泣いたり怒ったり、感情的な場面もまあまあある。そこで思う。あのニアサーの場面で、果たして二十代の大人が正しい判断など下せるのかと。私だったらまず無理だし、同世代の男女でも同じ局面で正しい答えを導き出せる人など絶対にいないのではないかと。だから思う。「行きなさいシンジくん!」、この決断を責められる人などいないのだと。

ではQでのミサトはどうだろう。シンジの意思を尊重した二十代とは一転、アラフォーとなったミサトの冷たい態度には何があったのか。ここは想像力で補うしかないのだが、新しい組織ヴィレのトップとなったミサトは、新たな部下を沢山従えている。自分に協力してくれる人材が多く集まった。しかし彼らはシンジの起こしたニアサーで家族を失うなど深い傷を負い、シンジを憎んでいる。そんな部下たちの前で「仕方なかった」とシンジを擁護すれば、彼らはどう思うだろう。Qでのミサトはシンジと部下たちとの間で板挟みになっていたのではないだろうか。本当は責任をシンジに押しつけたことを深く後悔し謝りたいものの、部下の手前ヴィレトップとしての体裁を取らなければいけないという葛藤に苛まれていたのではないか。シンジのDSSチョーカーの起爆装置を押せなかった姿が本音を物語っているように思える。極めつけはシン・エヴァ佳境のヴィレの槍をシンジに届けるシーンだ。自分の命を捨てる覚悟でヴンダーを発進させるも、そこには本当は会いたくてたまらない息子ともう一人の息子とも呼べるシンジの写真を愛おしそうに眺める姿があった。母として未熟なミサト。未熟ながらも母になったミサト。このシーンに一番涙腺が緩んだ。

確かにシンジに対しミサトの選んだ答えは正しくなかったし、息子と一生会わずに世界を救うという決断も、息子からしてみたらただの自己満足と思われるかもしれない。幾ら歳を重ねてもミサトは大人として不完全で、無責任とも言える。ただ、だからこそ私はミサトという人に好感を持った。フィクション世界の住人でありながらあまりに現実味のある生き方をしている一人の人間として素敵だと思った。

無責任というのであれば、この場合自分が死ぬことをわかっていてミサトとの間に子を宿した加持こそ無責任に思う。ミサトを戦いのフィールドから降ろしたいという優しい願いでもあったが、たとえ彼の思い通りの未来が進んでも、そこに加持がいないのであればミサトにとって本当に幸せと呼べるのだろうか。ただ、最後に自分の願いを押しつけたところが完璧で大人の余裕を見せる加持の幼さを感じるシーンでもあり、物語の演出としてはいい味になったと思う。

ミサトやゲンドウといった大人たちが本音や大人になりきれない部分をさらけ出していく中、シン・エヴァ作中で一番大人になったのは第3村でのトウジ、ヒカリ、ケンスケではないだろうか。初対面のシンジを殴ったトウジは何も反応を示さないシンジに優しく語りかけ、ヒカリはあれは何?と子供のように質問するアヤナミにわかりやすく丁寧に意味を教える。その姿は正しく親のそれだった。一方ケンスケは心を閉ざしたシンジをそっとしておく、時間をかけてほぐしていく方法を取った。少年時代からケンスケはトウジと違い他人にドライな印象があったが、それが大人になって適切な距離の保ち方に変化したように思う。他人に干渉しすぎない、だけど傍にいる。そんな心地よい距離に立つからこそ、既に人でなくなったアスカの心を暖められたのだろう。適度に大人で適度に好意を持つ、アスカが救われるのに必要だったのは加持でもシンジでもなかったのだと最終章で突きつけられ、これもまたいいサプライズだった。

そしてまた、ゲンドウとの和解を経てひとつの結論にたどり着いたシンジもまた、大人になっていく。終盤のシンジは前半の陰鬱さを一気に感じさせないが、大きな決断に「やる」ではなく「やってみるよ」と告げるところが、不完全さを現しているように思う。すべて吹っ切れたからといっていきなり大人になれるわけではないのだ。少しずつ、一歩ずつ成長していくしかない。

シン・エヴァで立ち回る人物は大人になれなかった大人と、大人になりつつある子供の対比でできているように思う。完璧な大人はいない。子供のままの子供もいない。そこにいるのは人間なんだと、3時間弱の映画からメッセージを受け取った気がした。


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