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初めての能
初めは黒澤明だった。
『七人の侍』や『生きる』、『羅生門』など、黒澤映画の脚本を多数執筆した偉大なる脚本家・橋本忍が書いた『私と黒澤明 複眼の映像』という本の中で、黒澤明のシナリオについての哲学が明かされている。
黒澤明にはシナリオについての哲学がある。
「仕事は一日も休んではいけない」
~略〜
彼は能好きで、仕事が終わった夜の食事の際には能についてよく話すが、いつも話題にするのが世阿弥である。世阿弥は室町期の人で、足利将軍の後援と庇護を受け、数多い名作を生み出し、今日まで伝わる能の芸術性を確立した人だが、その世阿弥が、ある日、川舟に乗り川を渡っていると中程で向こうから渡し舟がやって来て、船頭がお互いに声を掛け合う。おう、いい天気だな。ああ、いい天気で有り難いが、今日は体がしんどいよ。しんどい? どうしてだ? 昨日は仕事を休んだからな。
世阿弥は思わず膝をたたく。これだ! これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古事には一日も体を休ませてはいけないのだ。
これを読んだ時、2つの言葉が頭に浮かんだ。
「おいおい勘弁してくれよ。一日も休まないって、そんなことマジで言ってんのかよ」と、「偉人が一日も休まないって言ってるんだ、何も成してない凡人の俺が休んでいいわけないだろう」だ。当時ちょうどとある脚本を執筆中だったから、その日から「一日も休まない」を実践し始めた。
1ストライク。
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その次はオードリーの若林さん。
若林さんが書いた文章の中に、世阿弥の書いた『風姿花伝』が出てきたのだ。当時若林さんがウッチャンナンチャンの南原氏に仕事の悩みを相談したら、「風姿花伝に答えが書いてある」と言われたとのこと。そして読んだら答えがバッチリ書いてあって、感銘を受けたことや感じたことを文章にされていた。その文章に俺も感銘を受け、『風姿花伝』を読んだら、とんでもない名著だった。能の天才・世阿弥によるその本は、演者側へのアドバイスだけでなく、作り手側への金言もあふれていた。それが600年前に書かれたという衝撃の事実。大切なことは不変的であることを再確認した。
2ストライク。
最後は昭和の大女優・高峰秀子だ。彼女のベスト・エッセイを読んでいたら、世界的にも有名な日本の映画監督・小津安二郎について書かれた「人間スフィンクス」というエッセイがあった。その中で、高峰秀子が小津安二郎にたびたび誘われて能を観劇した時のことが書かれていた。同時代を生きていない俺でもその演技力に圧倒されまくった高峰秀子が大絶賛する能。そして小津安二郎も好き好んでいた能。この段階で、少し前までは小さな種だった"能への興味"はすくすくと成長し、ポン!と花開いた。
3ストライク、バッターアウッ!
そしてついに今日、母を誘って行ってきました。
国立能楽堂へ。
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JR代々木駅から10分くらい歩いたところにある国立能楽堂は、立派な門構えで、厳かな雰囲気を漂わせていた。伝統の気品を感じて自然と背筋が伸びる。中に入ると、大きな松が真ん中にでんとそびえ立っていた。「やっぱり日本は松だな」と俗物な自分でも思った。
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そして、入口にあった今日の演目スケジュールを見て度肝を抜かれた。
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12:30に始まり、終わるのは17:05……だと?
合計約4時間半(休憩20分含む)。勝手に2時間~2時間半くらいだろうと思っていたから、めちゃくちゃ長丁場で驚いた。
褌を締め直して客席に入ると、お客さんは6割くらい埋まっている感じだった。そして驚いたのは、意外にも若い客がポツポツいることだった。自分は3つのキッカケが積み重なってようやくここまで辿り着いたのだ。それぞれの若い客が、どのようにしてこの席にたどり着いたのか、ものすごく興味をそそられた。
舞台の方に目をやる。能の舞台のつくりは特殊だ。客席から見て右側に「本舞台」があり、本舞台から左に向かって廊下のような細い道の「橋掛り」がある。役者はこの橋掛りを通ってきて、本舞台で演じるというわけだ。
能を楽しむには事前に予習した方がいいという情報を得ていたので、観る前にしっかり『清経』『太刀奪』『三輪』『葵上』の4作品のあらすじを頭に入れた。一番楽しみにしていたのは、高峰秀子のエッセイにも出てきた「葵上」だった。光源氏絡みの話で、ネットで調べた際にもおすすめの演目によく上がっていた。
そして12時半になり、空気を切り裂くような笛の音が場内に響き渡った。
「始まった!」
本能的にそう感じ、目をかっぴらく。没落後の平家一族・平清経とその妻の悲劇を描いた『清経』が始まった。
揚幕(橋掛りの入口)から、能の器楽を担当する演者「囃子方」が現れる。また本舞台の右奥にある切戸口から、声楽の合唱者である「地謡」の方々も次々と現れる。一気に舞台上を黒服集団が埋め尽くす。
この切戸口が個人的におもしろくて、人が屈んでようやく通れる小さい扉から黒い大人たちがわんさか出てくるもんだから、「そんなとこから!?」と驚いた。
そしてようやく揚幕から役者が登場する。
……遅い! 基本役者はすり足で歩くのだが、女性は足一歩分ずつちょびちょび歩くのだ。橋掛りから本舞台に行くだけで、優雅に3分くらいはかかる。(男の役者は女性より少しだけ歩幅が大きくなる)
あまりに知らない世界過ぎて、ワクワクが止まらない。なんだこれ、の連続。これが何百年も続いている日本の伝統エンターテイメントか。
・シテ(主役)はお面を被っている。
・心地よい言葉のリズムで役者が喋る。
・言葉遣いが古風で難しい。
・大鼓と小鼓の演者さんが大声を発しながらポンポン鼓を叩いていく。迫力が凄い。
・地謡の合唱軍団が一斉に歌い出す。しかし何を言っているのか全くわからない。
・同じ日本語ではあるはずなのに、役者さんの言葉も全く理解できない。
・耳をすませて聞こうとするが、囃子方の楽器と声でかき消される。
数分後、俺は宇宙と交信していた。
人生初めての能『清経』は、6割方夢の中で、9割方理解できなかった。能、難し過ぎた。初心者の洗礼を受けた気分だった。
振り返る間もなく、立て続けに狂言『太刀奪』が始まった。狂言は能に比べて喜劇タッチで馬鹿馬鹿しく、言葉遣いも分かりやすいため、比較的簡単に楽しめるとネットに書いてあった。主人と家来がある男から太刀を奪おうとしてスッタモンダする『太刀奪』は、確かにわかりやすくてクスクス笑えた。時間も能に比べて25分と短く、サクッと終わった。(チョコレートプラネット長田のそろりそろりがリフレインしたのは言うまでもない)
お次は『三輪』。90分と一番長丁場。玄賓(げんぴん)というお坊さんと三輪神という女性の神が出てくる不思議なお話。またしてもほとんど理解できず、火星と更新しまくった。頑張って聞こうとすればするほど、理解しようとすればするほど脳内には言葉ならぬ言葉が氾濫し、自然とまぶたが下がっていく。やっぱり能、難しい。
でも大鼓の音は『三輪』が一番よかった。勢いよく叩いた時の「ポン!」という音が、空気を雷のように伝い、心臓を強く振動させる。何度"撃たれて"目を覚ましたことか。たゆまぬ努力の末の音なのだと思うと、リスペクトの念が止まらなかった。
あと最後の天の岩戸の舞も美しかった。15分くらいセリフなしでシテが踊り続けるのだが、舞と囃子方の楽器の音が見事に融合して眼福だった。あれを"幽玄"というのだろうか。
ようやく『三輪』が終わり、20分の休憩を経て、ついに『葵上』が始まった。嫉妬によって光源氏の正妻・葵上(あおいのうえ)に取り憑いた源氏の愛人・御息所(みやすどころ)の生き霊を、みんなでなんとか引き剥がそうとする話だ。
休憩の間に左側の席から本舞台の真ん前の席に移動したが、これが功を奏した。真正面から観る能は全然違った。まず能の核をなす大鼓と小鼓の二人がこっちをじっと見据えているので、目が合った気がして簡単には眠れない……なんて冗談はさておき、正面から見ることでこの大鼓と小鼓の二人がシンメトリーの構図となり、その真ん中に役者が立った時の美しさは、言葉にならない感動があった。本舞台の後ろの板(鏡板)に描かれた大きな松の絵も相まって、横の二次元の構図の美しさ、さらに奥行きを加味した三次元の立体的な美しさに、文字通り圧倒された。はぁ……と思わず息を呑む。能は正面から観た方が絶対にいい。玄人はともかく、初心者は絶対にそうだ。
『葵上』は内容も迫力も申し分なかった。まず次々と展開があり、役者も物語が進むにつれてどんどん増えていって飽きない。そしてここまできて、俺はようやく能の楽しみ方をわかってきた。能は、完全に理解しようとしてはならない。役者や地謡がなんと言っているかなんて、どうせわからないのだ。だったら初めから「どうせわからない」というスタンスで臨めばいい。肩肘張らずに、なんとなく楽しむ。事前に予習した内容や、役者の動き、音の盛り上がりなどを踏まえて、勝手に脳で「今こんなことを言ってるんだろうな」と補完する。不思議にも、それでだいたい合っている感じがするからすごい。なんだ、初めからこうやって楽しめばよかったんだ。
物語は終盤になり、生き霊の御息所のお面が鬼に変わって鬼女に変身した! そこから始まる御息所と小聖(霊媒師のような人)の闘いが凄まじかった! 小聖が数珠をシャカシャカこすりながら御息所を追い払おうするが、御息所は負けじと追い返す。行ったり来たりを繰り返しながら、囃子方の大鼓、小鼓、太鼓、笛の音も盛り上がっていく。まさにクライマックスという感じで、気持ちが昂ぶり、熱くなった。
そして最後にスーッと御息所が橋掛りから去っていき、小聖がなんとか勝利を収める。葵上は助かり、舞台から一人ずつ演者が去っていく。最後に地謡だけが残り、おめでたい内容の謡を謡う「附祝言」を行って、ようやく全ての演目が終了した。『葵上』だけは、最初から最後まで寝ずに観ることができた。
それから能楽堂を出て、母と代々木駅東口の「こげお」という店でもんじゃを食べて、帰路につきました。
以上、初めての能の体験記でした。恥ずかしいけど、全て素直に綴った。正直ちゃんと能を楽しめたのかどうかわからない。半分以上宇宙と交信していたし、理解できないところも多々あった。でも、観てよかった。「わからない」を知れてよかった。
純粋に能を楽しめている人が羨ましいし、自分ももっと能を楽しめるようになりたい。おそらく能を楽しむためには、もっと素養が必要なんだと思う。前の席に、古典で習うような日本語で書かれた台本を持ちながら観劇している人もいた。その時「やっぱり聞き取れなくて当然なんだな」と思った。
あと俺は「おもしろくない」とか「理解できない」と感じると眠くなる習性があって、だからたくさん寝ちゃったけど、同じ若い人たちでもずっと起きている人もいた。あの人と自分の違いはなんなのだろう。正直この眠気に勝つ方法は無いと思っているので、だからこそ純粋に能の「楽しみ方」を見つけたい。
能は多分"能動的に"楽しむ娯楽なんだと思う。役者の移動だけで数分経ったりするし、余白がとにかくたくさんある。それは「退屈」にも感じられるし、「楽しむ」こともできる。意味や刺激のみを切り刻んで細切れに出すショート動画の真逆とも言えるこの能を、楽しめる人間に俺はなりたい。目ガン開きで能を全作通して楽しめる人間になった時、俺は本当に豊かな人間になったと言えるのではなかろうか。
周りに座る能を堪能していた先輩方を見て、俺もこういう大人になりたいと強く思った。