姉弟日記 『海の日』
夏へと向かう季節のこと。
4人がひとつのテーブルについて、
家族団欒の夕食を楽しんでいる。
「ねえねえ、次の連休どこに出かけようか」
ちょうど前の話題が切れたところに、
穏やかな言葉で父親がそう切り出した。
またこの季節が来たのか……と、
幼い少年は心の内でため息をつく。
そんな彼の心境など知る由もなく、
姉と母親はにこにこと笑みを浮かべている。
次の連休の最終日は、
『海』と名のつく忌まわしき祝日。
父からの提案で、去年からその日は、
近県に海水浴へ行くことになっていた。
──夕食を終えた少年は自室へ戻り、
椅子に座りながら海のことを考える。
……彼は、海水浴が苦手だった。
海水が肌に纏わり付く不快な感覚。
そもそも人前で肌を晒すという行為が、
知性のある生き物の行動とは思えない。
出かけ先を海から変えられないかと、
作戦を脳内で組み立てていると。
こつこつというノックの音と共に、
姉である少女が部屋へと入ってきた。
「……今年は、海で何しようか?」
どこか少年の気持ちを探るような、
慎重で迷いを含んだ彼女の声。
なんと答えようか彼が口篭っていると、
少女は小さく決心したように、こう続ける。
「私、海はちょっと苦手で……」
昨年を思い返せば、姉が海ではしゃぐ
眩い光景が脳裏に浮かんでくる。
だが意外にも、少年と同じように
好ましくない感想を持っていたらしい。
髪がぎしぎしして……それに水着も……
だけど、お父さんが張り切っていたから、
口には出しにくかったのだという。
かくして姉弟は、珍しく手を取り合って。
次の連休の行き先を、山にするための、
共同戦線を締結することにした。
目的を同じくした少年と姉は、
策を練った後、いざ父親のもとへ出陣する。
ダイニングの机でノートパソコンを広げ、
海について調べ物をしている父。
姉弟が交わす無言の頷きが、
作戦の決行の合図だ。
まず動いたのは少年。
両親の寝室から持ち出した旅行ガイドを
机に置いて、牽制を行う。
ガイドは緑豊かな山のページが開かれ、
満開の花園やBBQの写真で飾られていた。
父親の「良さそうなところだね」
という言葉を聞いて、すかさず姉が追撃。
お気に入りの帽子と、虫取り網を装備して、
山へ出かける意気込みを伝えようとする。
似合ってると微笑んだ後、
父は「山にも行かないとね」と呟く。
もうひと押しだと、姉弟は視線を交わした。
──けれど。
その後どれだけ山の魅力を伝えても、
父親は生返事をするだけ。
奥の手で『毒クラゲ大量発生!』などという、
怪しげな記事で海の恐怖を伝えても……
結局、休日の予定は海から動かなかった。
「……今年の海は、きっと楽しいよね」
なお楽しそうに調べ物を続ける父に、
仕方ないねという雰囲気で姉が言う。
その一言に、少年も頷くしかできなかった。
日々少しずつ日差しが熱を帯びていき、
連休はこれ以上ない海日和となった。
穏やかに揺らぐ波に、塩の香りを運ぶ風。
その最中に立つ、小さな姉弟は──
パイプ付きの変わったゴーグルと、
ぴっちりとしたマリンスーツを着ていた。
家族の目的は、シュノーケリング。
少年は初めての体験にそわそわしつつ、
大人達に付き添われながら海へと入り……
おそるおそる海面へ顔を沈めた。
──不思議な体験だった。
水の中で息ができる違和感と、
視界に広がる青みがかった世界。
海面から射す光が浅瀬の底で波打ち、
鮮やかな色の小魚達が泳いでいる。
青、青、青、赤。
少年が珍しい魚を目で追っていると、
姉も魚を目で追いながら近付いてくる。
二人は隣り合ってぷかぷか浮かびながら。
あれほど嫌がっていた海の中で、
その幻想の光景を見つめ続けていた──
「ちょっとは、海が好きになれたかな?」
やがて陸へと戻った二人に向かって、
と父親が声をかけてくる。
姉弟が海を苦手に思っていたことを、
どうやら父親はお見通しだったようだ。
それでも。
子供達が嫌がっていた水着を着ずに、
綺麗な景色を見られるシュノーケリングなら。
興味を持ってくれるのではないかと思い、
今回の旅行を計画したのだという。
昨日まで嫌々避けようとしていた海。
だが心惹かれる側面があったことを、
少年は認めざるを得なかった。
「今度はダイビングなんてどう?」
家族を陸から見守っていた母が勧める。
子供達が興味を示したことが嬉しかったようで、
さっそく次の旅行計画を考え始める両親。
「お父さん達、気が早すぎるよ?」
そう姉が、やれやれと親の暴走を宥めている。
──身近なものにも、見えない側面がある。
家族の掛け合いを眺めながら、少年は想う。
普段の姉との関わりといえば、
少年がちょっかいを出しての喧嘩ばかり。
そうしなければ……
姉は自分を構ってくれないのではないかと、
心のどこかで感じていたからかもしれない。
けれどもこの祝日に至るまで、
姉弟は同じ目的で結託し、
同じ魚を目で追うことができた。
二人を繋ぐ見えない何かを
気付かせてくれた海に、感謝しなければ。
少年は珍しく、そんな不確かなことを考えた。
海、楽しかったね。また来ようね。
そう太陽のように微笑む姉へ。
少年は「悪くはなかった」と
素直じゃない言葉を返しながら。
次の海で見ることができるであろうものに、
僅かに胸を高鳴らせるのだった。
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