因幡の白兎、神となり社に鎮座するまでの物語 1 因幡の白兎、オオクニヌシノミコトに助けられ奇妙な境遇になりし話
初めまして、わたくしはシロナガミミノミコトと申します。
ピンとこない方も因幡の白兎と言えば思い当たるのではないでしょうか。
ちなみに『古事記』では稲葉の素兎となっております。
読み方は同じですよ。
今は白兎神社に鎮座し白兎大明神、大兎大明神と呼ばれております。
人間の歴史書には、わたくしとオオクニヌシノミコト(大国主命)とのエピソードは記されていますが、その後助けられた白兎がどのようにして神になったのかは触れられておりません。
興味がおありですか?
それではわたくしが鎮座するまでの出来事をお話ししましょう。
神代から奈良へと移り変わる時代を背景に紡がれた白兎神の一代記に、どうぞおつきあいくださいませ。
白ウサギとオオクニヌシノミコトとの出会いを念のためにお話ししましょう。
当時わたくしは淤岐之島に住んでいて、海の向こうの陸地へ渡ってみたくてたまりませんでした。
そこでワニザメに「わたくしの一族とあなた方の一族、どちらが数が多いか比べてみましょう。この島から気多の前まで並んでください。そうすれば、あなた方の背中を跳んで数えてあげますよ」と騙して並ばせたのです。
ずらりと並んだワニザメの上をぴょんぴょん跳ねて淤岐之島から海を渡り岸に着く寸前に、つい「おまえたちは、わたくしに騙された!」と本音を漏らしてしまいました。
当然ワニザメは怒りました。
一番近くにいた一匹に毛皮をむしられてしまい、痛くて海岸で泣いていたのです。
そこへやってきたのが八十神の一行。
ちなみに八十名いたわけではなく大勢という意味で、この方々はオオクニヌシノミコトのお兄さん達です。
わたくしはこの神々にでたらめな治療法を教えられ、本気にして海水を浴び潮風にあたってしまい、さらにひび割れて痛くて痛くて。
もう思い出すだけで身震いするほどの痛みでしたよ。
次にやって来られたのがオオクニヌシノミコト。
今で言うパシリ扱いで、兄さん達に押しつけられた大きな荷物を背負っておられましたっけ。
泣いているわたくしの話をお聞きになって、真水で身体を洗いガマの穂を敷いてその上で転がるようにと教えてくださったのです。
そのおかげで皮膚も毛も元通り。
どれほど感謝したか、言葉には尽くせません。
ちなみに八十神とオオクニヌシノミコトは、ヤカミヒメという美人の女神様に求婚に行かれるところだったのです。
わたくしは「ヤカミヒメと結婚するのは、あなたです」と予言をし、後にその通りになったのでした。
さて、オオクニヌシノミコトが行ってしまわれた後「因幡の白兎はふさふさの毛でつつがなく暮らしました。めでたしめでたし」と締めくくりたいのですが、そううまくはいかなかったのです。
オオクニヌシノミコトをお見送りしてからは、のんびりと因幡で暮らしておりました。
ところがある日、妙なことに気づいてしまいました。
「あれ? なぜ二足歩行をしているんだろう?」
いつの間にか後ろ足で立って人間のように歩いていたのです。
あわててウサギらしく四本足で跳ねるようにしたのですが、またごく自然に後ろ足で立って歩いています。
ショックというかなんというか。
自分で自分の動揺を抑えるために海の見える気持ちのよい丘で寝転びながら、この奇妙な歩き癖について考えました。
以前、島にいたときには、ちゃんとウサギらしく四本足で跳ねておりました。
こっちの海岸に着いてすぐにワニザメに毛をむしられ痛くて泣き叫び、オオクニヌシノミコトのおかげでまた元通りの体になり、その後も四本足で……。
いや……あれ?
オオクニヌシノミコトをお見送りするとき、後ろ足で立って前足を振っていなかったっけ?
うわ〜!
そうです、あの時以来二足歩行になっていたのです。
呆然としつつも風に吹かれているうちに、ふと次の疑問がわき起こりました。
最近、他の動物たちと交流がないのです。
わたくしは決して「孤独が好き」なタイプではなく、どちらかというと愛想の良い方で友達作りは得意なのですが、気がつくと一羽。
いえいえ、決して他の動物たちに意地悪しておりません。
でも他の動物に会うと、皆、わたくしに一礼して通り過ぎていきます。
こちらも自然に礼を返して通り過ぎて……。
おかしいですよ!
普段なら立ち話の一つもして、「あそこの草はおいしい」とか「あっちは猟師がいるから行くな」とか、情報交換するんですよ。
それなのに最近はそんな会話は一つもせず、わたくしの長い耳に入ってくる話題といえば、「オオクニヌシノミコトが根の堅州国へ行ってスセリビメという正妻をもらってきた」だの「スクナヒコナノミコト(少彦名命)という小さな神様が、オオクニヌシノミコトの国造りを手伝っている」だの「ヤカミヒメがスセリビメにいびられて、我が子を木の股に挟んで出戻ってきた」だの、しがないウサギには無縁な話ばかりじゃないですか。
それも、わたくしの長い耳が〝風の便り〟を勝手に聞き取っているじゃないですか!
頭を抱えて後ろ足で立ち上がり、ふらふらとねぐらにしている洞穴に向かって歩き出しました。
前方の藪で人間の猟師が数名、怪訝な顔つきでこちらを見ております。
普段ならすぐさま脱兎のごとく、いえウサギらしく走って逃げるのですが、なぜかそういう気になりません。
何と言いますか、根拠のない確信がありました。
(あの連中が、わたくしを仕留めることはできない)
猟師の一人が弓に矢をつがえ、こちらへ向かって放ちました。
それでも、わたくしは悠然と歩いていました。
矢はまっすぐに首の辺りに飛んできましたが、あと少しで当たるというところでヒョイと直角に曲がり、傍の木の幹に突き刺さりました。
人間達は全員弓矢を放り出し、跪いて手を合わせます。
わたくしはそれを当然と受け止め、そのまま二足歩行で自分の住まいへ戻ったのでした。
巣穴に入り藁の上に座ってから、今の事態の異常さに気づいて愕然としましたとも。
二足歩行も、動物たちとの無交流も、神情報収集も充分変ですが、猟師の矢が勝手に曲がって逸れたって……んなこと、ありえませんよ!
気味が悪くて突っ伏してしまいました。
思えばオオクニヌシノミコトに出会ってからずいぶん月日がたっております。
それなのに少しも自分の異変に気づかずにすごしていたのですから、何から何までおかしいですよ。
泣きたい気持ちで伏せって、どのくらい時間がたったでしょう。
巣穴の外で羽音がして、聞いたことのない声がしました。
「ごめんください。文をお持ちしました。ご在宅でしょうか?」
「留守です」
とっさに藁を被って、そう答えました。
こんなときに来るなんて!
誰にも会いたくないよ、という気持ちでした。
すると誰かが横に立った気配がして、また同じ声が聞こえました。
「ふざけないでくださいよ、ウサギさん。いるじゃないですか」
「ウサギさん、留守で〜す」
もう一度答えましたが、今度は尻尾が軽くつつかれました。
「藁を被っていても、尻尾が出てますよ」
もぞもぞと両前足で尻尾を押さえようとするより早く、被っていた藁がばさりとはねのけられました。
目の前には、首から立派な布で作られた袋を下げた雉があきれ顔で立っています。
面識の無い雉です。
絶望的な気持ちで起き上がり、わたくしは雉に言いました。
「お願いです、そっとしておいてください。話す気分じゃないんです」
雉は様子がおかしいと気づいたのでしょう、さっきまでの事務的な口調が消え優しい声音になりました。
「どうしたんですか? そんなにまいっているなんて、尋常ではありませんね」
「尋常ではないことが、起きているからですよ」
わたくしは、地面に大穴を開けそうなほどのため息をつきました。
「私に話してみませんか? これでも神々の文遣いをしている身ですから、お役に立てるかもしれませんよ」
雉が心配そうな顔をしているのに気づき、わたくしは藁にもすがる思いで自分の身に起きた異変を、この雉に打ち明けたのです。
話し終えると、それまで黙って聞いていた雉が言いました。
「この文が、ウサギさんの疑問に答えてくれるでしょう」
そして首に提げた袋から一通の文を出して差し出しました。
そこで、この雉が変な白ウサギの人生、いえ兎生相談に来たのではなく、文遣いだったことをようやく思い出したのです。
「いったい誰からですか?」
「ヤカミヒメに依頼されました」
驚きました。
ヤカミヒメとは面識がないんです。
オオクニヌシノミコトに「結婚しますよ」と予言はいたしましたが、今思えばどうしてあんなことを口走ったのか自分でもわかりません。
それでも雉が親切に促すように見ているので、恐る恐る文を受け取り開いてみました。
スグコイ ヤカミヒメ
たいへんあっさりした文でございました。
「どうして、お呼びなのだろう? お会いしたこともないのに……」
すると、雉が諭すような口ぶりになりました。
「おそらくウサギさんの身に起きた異変と関係があるのですよ。行ってごらんなさい。悪いことにはならないと思います」
この時点ですでに雉は因幡の白兎の身に起きた大変化の正体がわかっていたものの、この場でそれを教えたらまた寝込んでしまうと考え、あえて言わなかったのです。
この事情は後に再会した時にこの雉が打ち明けたのですが、当時はわかるはずもございません。
ちなみになぜこの時代に文があるのか疑問をお持ちかもしれませんが、すでに神々は墨も筆も紙も使用していたのです。
文を手に迷っていると、雉がさらに優しく促しました。
「ここに座っていても何も変わらないのだから、さあ、お行きなさい」
「それもそうですね。ヤカミヒメを訪ねてみましょう」
わたくしが心を決めたので、雉は安心したように帰ってゆきました。
その後で近くのきれいな泉へ行き、顔を洗い口をすすぎ全身水浴びをして身を清め、ヤカミヒメのお住まいへ出向いたのです。
ヤカミヒメは知らない者がいない有名な方でしたから、お住まいは存じ上げていました。
お社の前では若い侍女が、待ち構えております。
「白ウサギさん、ようこそ。ヤカミヒメがお待ちです」
侍女はウサギが二足歩行していることなど気にも留めず、さっさと中へ案内してくれました。
清楚な品の良いお部屋で、噂通りの美しい女神様が待っていらっしゃいます。
「よく来てくれましたね、ウサギさん、さあどうぞ」
勧められた敷物の上に畏まって座り、丁寧にヤカミヒメにお辞儀をしてからおずおずとお尋ねしました。
「あの……どのようなご用件なのでしょうか? ご覧の通り、わたくし、二足歩行はしているわ、妙なことばかり起きるわ、ひどくへんてこりんなウサギなのですが……」
ヤカミヒメは、にっこりされました。
「ちっとも変ではありませんよ。あなたはもうただのウサギではありません。神になったのですから」
全く理解が追いつきません。
わたくしが神?
「いえいえ、わたくしは因幡に住む白兎にすぎません」
するとヤカミヒメが噛んで含めるようにおっしゃいました。
「あなたはオオクニヌシノミコトに出会って助けられたのがきっかけで神通力を得、神になったのですよ。だから二足歩行をして、様々なウサギらしからぬ行動をしているのです。あなたの噂は出雲で聞きました。もう『因幡の白兎が、オオクニヌシノミコトと関わって神通力を得てウサギ神になった』と、誰もが知っていますとも」
「えええ〜!」
仰天しました。
当の本人、いえ本兎が知らないのに皆さんご存じなのですか?
「このわたくしがウサギ神なんて、冗談ですよね? ……そうですよね? ……そうだとおっしゃってください〜」
哀願しましたが、ヤカミヒメは気の毒そうに見ておられます。
「驚くのも無理はありませんが、今言ったことは紛れもなく事実なのです。あなたはもうウサギ神。あたくしたちと同類なのですよ」
「そんな〜」
「あなたはもともと普通の茶色いウサギでしょ? それが白ウサギになっているんです。これは神聖な存在になった証なのです」
いちいちごもっともでございます。
わたくしは本来、ノウサギらしい毛色でございました。
でもオオクニヌシノミコトに治していただいて以来、夏も冬も真っ白な毛になったのです。
とにかくあの激痛が消え、皮膚は元通り、毛も生えたで、あまり色については気にしていなかったのですが、まさかそんな重大な意味があったなんて……。
ヤカミヒメの御前でしたが、わたくしはまた突っ伏してしまいました。
「驚くのはわかりますが、これはめでたいことなのよ、ウサギさん」
その御言葉に、そろそろと頭を上げました。
「めでたい?」
「そうですとも。もし普通のウサギだったら、寿命は短いし、どこで猟師や鷹などの天敵に襲われるかわかりませんし、いいことなんかありませんよ。ウサギ神なら、命が長いからこの先いろいろなことを見守れるし、猟師の餌食になることもないし、社にお供え物も持ってきてもらえるし、素敵なことがたくさんありますとも」
わたくしは座り直し、ヤカミヒメのお言葉を頭の中で繰り返してみました。
確かに普通のウサギとして暮らすよりも、いいことがたくさんあるのかもしれません。
少なくともワニザメに皮をはがれることはないでしょうし。
だんだん気分が落ち着いてきたことがおわかりになったのか、ヤカミヒメが身を乗り出してこられました。
「あなたを呼んだのはね、共同事業をしたいと思ったからなの」
「……はあ?」
唐突なお言葉にとまどってしまいましたが、ヤカミヒメは楽しそうに笑っていらっしゃいます。
「あたくし、もう男も子供もこりごり。これからは職業婦人として生きていこうと思っているの。その計画を練っているうちにウサギさんのことを思い出して、協力してもらおうと考えたのよ」
「でも、また再婚のご縁もございましょうに……」
ヤカミヒメは苦い表情になられました。
「もうけっこうよ。オオクニヌシノミコトを夫と決めて出雲へついて行ったら、正妻として根の堅州国からスセリビメを連れてきていたのよ。それはまあ、仕方ないわ。あちらのお父様は、スサノオノミコト(素戔嗚尊)なんですもの。でも、この女が嫉妬深いわ、性格きついわで、どれだけいびり倒されたか! 旦那も旦那よね。スセリビメには何も言えなくて、後でそっと『ごめんね、我慢してくれる』なのよ。情けないったら、ありゃしない。愛想が尽きて子供を連れて帰ろうとしたら、その子供までが『僕、お父さんの所にいたいです。帰るなら一人で帰ってください』とか言うのよ」
「あら? 自分から残ると言ったのですか、お子さん?」
「ええ、そうなの。あたくしも驚いてね、『何を言っているの? そんなにお母さんが嫌いなの? あなたを大切に育ててきたつもりだったわ』って言ったら、息子、なんて答えたと思う? 『お母さんには何の不満もありません。ただ、このままお母さんの里へ帰っても、家は小さいし人間からのお供物も参拝も少なくなるでしょう? お父さんの傍にいた方が、今まで通りのいい暮らしができますから』ですって。『ここで別れたら、もう二度とあたくしに会えないのよ、いいの?』って聞き返したら、『仕方ないですよ。僕、今の上流暮らしを失いたくないんです』ってギャンギャン泣くの。もう腹立たしいやら情けないやら……だから、望み通りに木の股に挟んで置いて帰ってきたのよ。はあ〜、完全に男選びも子育ても間違ったわ。だから、もう再婚も出産もなしで職業婦人を目指そうって決めたの。そして事業の協力者として、あなたを呼んだのよ」
お気の毒なヤカミヒメでございますが、すでにサバサバと割り切ったご様子ですので、あえて傷をえぐるようなことを言うのもどうかと思い、話題に乗ることにしました。
「協力者とおっしゃいましたが、ウサギふぜいに何ができましょう?」
ヤカミヒメは、にんまりなさいました。
「神って、そのしてきたことに由来する御利益を与えるの。そうすると、あなたのすることってわかると思うのよね」
「そうですね……ワニザメに毛をむしられてからオオクニヌシノミコトにお助けいただいて完治し、今は短毛ながらフサフサでございます。わたくしが与えられる御利益とは、毛の乏しい者をフサフサにすることなのでしょうか?」
「確かに今のあなたはフサフサね。でもね、それだけじゃないでしょう? あなたはオオクニヌシノミコトに、あたくしを妻にするって予言したでしょう?」
「そうでした。でも、なぜあのようなことを告げたのか、自分でもわからないのです」
「あなたは自然に縁結びを口にして、それが実現したわ。予想外の出来事であたくしの結婚生活は破綻したけれど、ともかく結びつけたことには違いないもの。スセリビメっていう強力な破壊者が現れなければ、あたくし今でもオオクニヌシノミコトと暮らしていたしね。ま、もうどうでもいいけれど」
「はあ」
「だから、決めたのよ。自分の失敗を反面教師にして、ちゃんと最後まで成就するような縁結びをしようって。自分がうまくいっているからといって、他人にも同じように出来るとはかぎらないわ。むしろ『こうなってはいけない』っていう苦い体験をしたからこそ、御利益を与えられるってものよ。だから、あたくしがお参りに来た者の縁結びをして、あなたもさらに縁結びをして、この地で一緒に二重に強力な縁結びの神として共同作業をしましょうよ。もちろん、あなたは縁結び以外にも、皮膚の疾患やらフサフサやらにご利益を与えてもいいんだし」
「そのような難しいお仕事、できそうもありません。第一、まだ神になったなどという実感もありませんし……」
もごもご言い訳してお断りしようとしましたが、ヤカミヒメはきっぱりとおっしゃいました。
「ウサギさん、可哀想だけれど、あなたはもうどうあがいても元の平々凡々なウサギには戻れないのよ。この先、ずっとウサギ神として生きていくしかないの。諦めなさい。あたくしだって、愛した男や子供と別れるっていう運命を受け入れたのよ。あなたもどうにもならないことは潔く受け入れて前向きにお生きなさい。ぐずぐずと生きるか、堂々と生きるか、あなたは今、分岐点にいるの。どちらにするの?」
美しい女神様ですが、意外に竹を割ったような性格のお方なのだと感じました。
これが天性のものなのか、スセリビメにいびり出されて職業婦人として生きる覚悟をしたからなのかは不明でしたが、おそらく後者のような気がいたします。
ヤカミヒメのお言葉で、わたくしは腹をくくりました。
「おっしゃるとおりですね。くよくよしたところで、元の平凡なウサギに戻れるわけではなし、前向きにウサギ神として生きる算段をした方が建設的なようです」
「その通りよ!」
ヤカミヒメは、華やかにお笑いになりました。
「よく決意しましたね、ウサギさん。一緒に、この地を盛り上げていきましょう!」
わたくしはうなずいたものの、すぐに困惑いたしました。
「……あの……神として生きるって、どういうふうにするのでしょうか?」
生まれてこの方、神になる教育など受けたこともありませんし、身近に神になったウサギもおりません。
決心したのはいいのですが、はてさてどうしたものかと途方に暮れたのもまた事実。
すぐにヤカミヒメが手を叩かれました。
それに応じて、さっきとは違う侍女が手箱と反物を持ってきました。
ヤカミヒメは反物を手に取られ、手箱から針と糸を出されて、ささっと縫い上げられました。
「さあ、ウサギさん、こっちへいらっしゃい」
ヤカミヒメの近くまで膝で進むとすぐに、手にされていたものをわたくしの頭に被せられました。
「立ってごらんなさい」
後ろ足で立ち上がって驚きました。
わたくしは一人前の男子の装束を身につけて、沓まで履いているではありませんか。
ヤカミヒメはまた手箱に手を入れられ、ごそごそと何かしておられましたが、首と両前足にできたものをかけてくださいました。
「さあ、これでいいわ。ええっと鏡よりも全身を写すなら……お庭の池で見てきてごらん」
急いで庭へ出て、水鏡に自分の姿を映しました。
水面には装束を身につけ、勾玉の首飾りと手玉(両手につける飾り)をした白ウサギの姿があります。
我ながらただのウサギでいた時よりもやたら立派に見えます。
横にヤカミヒメがおいでになり微笑まれました。
「どう? これで旅に出られるでしょう?」
「旅?」
「あなたはこれから出雲のオオクニヌシノミコトの所へ行って、神としての心得を教えてもらいなさい。夫としては情けないけれど、国造りの神としては有能な男よ」
オオクニヌシノミコトとの再会。
それは胸躍る素晴らしい響きでしたが、すぐさま大きな恐れがもくもくと入道雲のように広がりました。
「今もオオクニヌシノミコトは、正妻のスセリビメとお暮らしなのですよね? わたくしがあなたの関係者だと知れたら……」
「ああ、それは大丈夫。あの女、自分の恋敵に対しては徹底的に攻撃するけれど、それ以外の相手にはけっこう親切なのよ。あなたなら問題ないわ」
ヤカミヒメは、安堵しているわたくしの衣類をあちこち軽く引っ張って整えてくださいました。
「さあ、これでいいわ。急いで縫ったけれど、なかなかの出来でしょ?」
「はい、見事です。ありがとうございます。この首飾りと手玉には、魔除けとか何か、そういう効果があるのでしょうか?」
「いいえ。お裁縫箱に残っているのを見つけて、ちょちょっと繋げてみたの。何もつけていないと寂しいでしょ」
はあ〜、そうですか。
残り物で作っただけですか。
女神の作った勾玉の首飾りと手玉、どんなすごい効果があるのかと期待していたのですけれど……。
「いっけない! 大事なことを忘れていたわ」
大声をあげられるヤカミヒメに、わたくしは首を傾げました。
「何をお忘れですか?」
「名前よ。神になったのに、ウサギさんじゃ、あんまりだわ。神らしい名前をつけないと……」
名前ですか。
今まで〝白ウサギ〟〝ウサギ〟で通っていましたから、そんな立派なものは持ち合わせておりませなんだ。
ヤカミヒメは少し下がられ、とっくりとわたくしを眺め、ややあって大きくうなずかれます。
「あなたの名前、シロナガミミノミコトにしましょう。どうかしら?」
シロナガミミノミコト。
わたくしは、初めてつけられた自分の名前に胸が熱くなりました。
そのまんまじゃないかと思われるかもしれませんが、だいたい神の名は皆、その出身地や性格や役割や外見、そのまんまでございます。
「嬉しいです! 素敵な名前をありがとうございます!」
「気に入ってくれてよかったわ」
にこにこしておられるヤカミヒメが、一枚の地図をくださいました。
「ここがオオクニヌシノミコトの住所よ。念のために渡しておくわ。行って、神の心得を学んでいらっしゃい。そして立派な神になって、共同事業に励みましょう。あたくし、一足先に準備をして待っていますからね」
「長い旅になりそうです。因幡から出雲はずいぶん遠いですから」
島から因幡に渡っただけで他の地を知りませんが、かなり距離があることは存じておりますとも。
「心配ないわ。神になったのですもの。〝神の道〟を通れますから、人間や普通の兎よりもずっと早く行けますよ」
神の道?
怪訝な顔をしているわたくしに、ヤカミヒメは続けておっしゃいました。
「行きたいところを念じると、自然にその場所へ向かうことができるのよ。うーん、慣れればどこからでも入れるけれど、あなたは初めてだから、まず海岸へ出てそこから行くといいでしょう。あの辺りは入りやすいのよ」
「ふへ! そんな便利なものがあるのですか! 目的地まで道がまっすぐに続いているのですか?」
「そういうものじゃないのよ。なんと言えばいいのかしら。この世界自体が人間の住む場所と神の住む場所が重なっていたり別個になっていたりするのよね。〝神の道〟は、神や精霊のみが入れる霊的な場所と条件はあるけれど人間も入れる霊的な場所をつなぎ合わせて短縮し、自動的に行きたいところへ行けるの。場所によっては危ないところもあるけれど、安全なところをゆっくり行けば大丈夫。万一途中で人間の世界に出てしまったり、目的地からそれてしまったりした場合に備えて地図を渡したの。それを見ればうっかり人間界に出てしまってもすぐに戻れるから」
わたくしは次々に展開する新しいことについて行くのがやっとです。
「神になるのは大変なことなのですね」
「心配しないで。あなたはもう兎神になっているんですもの。だんだん神の常識を覚えていけばいいのよ。オオクニヌシノミコトから学んでいらっしゃい」
「はい、きっと一人前の神になって帰ってきます」
地図を手にして、ヤカミヒメに見送られてお屋敷を出ました。
見慣れた辺りの風景が、妙に愛おしく感じます。
そして出雲へ行くために、まず海岸へ向かったのです。
海岸へ出てから地図をとっくりと見直し行き先を確かめました。
そして歩き出した途端、誰かの声がします。
「ウサギさん、ウサギさん、ちょっと待ってください」
見回しましたが、誰もおりません。
気のせいかなあと思いまた歩き出すと、「こっちです、海の方」という声が。
そこで海の方を見て……
うわわわわわ……
後ずさりしてしまいました。
波間から顔を出してこちらを見ているのは一匹のワニザメ。
わたくしの毛をむしった奴かどうかはわかりませんが、ワニザメには間違いありません。
その場で固まってしまいましたよ。
逃げた方がいいかも。
引いているわたくしの目前で、なんとワニザメが上半身を波から出して丁寧にお辞儀をするではありませんか。
「ウサギさん、その節はたいへんひどいことをしてしまいまして、申し訳ございませんでした」
「……え?」
きょとんとしてしまいましたが、ワニザメは恐縮しきった態度でもう一度頭を下げました。
「後で長老にこっぴどく叱られました。『いくら騙されたとはいえ、それはイタズラの範囲だろう。それなのに毛をむしるとは何事か! おまえたちとてヒレをむしられてヒレ汁にされたら、どんな気持ちがする! おまえたちがしたことは、それぐらいひどいことだ。すぐにウサギさんに謝りなさい』と。私はウサギさんの毛をむしっていないんですが、むしったワニザメ以外にも『食べる目的以外で、生き物にむごいまねをしてはならん』と厳重注意で……それで誰でもいいからウサギさんにお会いしたら謝ろうと、皆で決めていたんです。本当にすみませんでした」
わたくしは、疑い深くワニザメを見つめました。
何しろ、あの痛みは深刻な心的外傷になっておりましたから「また、毛をむしるんじゃないか?」という懸念は消えなかったのです。
しかし、このワニザメの恐縮している態度からどうやら本心らしいとわかり、そろそろと波打ち際へ近づきました。
「いえ、あなた方を騙したのですから、申し訳ないと思っていますよ」
「とんでもありません、毛をむしってごめんなさい。あなたにひどいことをしたのは、私の従姉の嫁ぎ先の三男坊が養子に行った先の長男なのです。無関係とは言えません。身内がとんでもないことを……重ね重ね申し訳ございません」
いったいワニザメの親戚関係は、どこまで続いているんだろう?
そんな疑問がよぎりましたが、すぐに答えました。
「いえいえ、わたくしはもう気にしていませんと、あなたの従姉の嫁ぎ先の三男坊が養子に行った先の長男のワニザメさんにお伝えください」
ワニザメは、嬉しそうに尻尾でパシャリと海面を叩きました。
「そう言っていただけると、本当に嬉しゅうございます。確かに伝えます。他のワニザメにもあなたが許してくださったと、伝えましょう」
「お互い、水に流しましょうね、ワニザメさん」
「神になったあなたにそう言っていただいて、安心しました」
「おや、わたくしが神になったということをご存じなのですか?」
「もちろんです。あなたに謝ろうと思っているうちに、〝因幡の白ウサギがウサギ神になった〟と聞いて、『どうしよう、早く謝らないと神罰が〜』と毎日誰かしらがこの辺りの海岸に来て、あなたを探していたんですよ」
意外に自分で自分のことはわからず他の者の方がよく知っていることがあるものだと、改めて学んだのでございます。
「神といっても、なったばかりですから。ヤカミヒメにシロナガミミノミコトと名付けていただいてこれから修行に行くので、まだまだ見習いです」
「シロナガミミノミコトですか。いいお名前ですね。ところで、どちらへ行かれるのですか?」
「出雲のオオクニヌシノミコトのところへ、神の心得をうかがいにまいります」
「なるほど、あのお方ならば、きっと素晴らしいことを教えてくださるでしょう。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」
ワニザメが、思い出したように付け加えました。
「そうそう、もし我らに何かお手伝いできることがあったら、いつでもお呼びください。ほら、あっちに崖から突き出るように松の木が生えているでしょう? 海岸線のところどころにあんなふうに松が生えていますが、その下の海には必ずワニザメがいるんです。ご用がおありでしたら、ああいう松の根元に立って海へ向かって『お〜い、ワニザメよ〜い』とお呼びください。必ず誰かがお役に立てると存じます」
「どうもありがとう」
「お気をつけて、シロナガミミノミコト」
思いがけずワニザメと和解し、わたくしは明るい気分で出雲へと歩き出しました。
神への第一歩がここから始まったのです。
〝神の道〟へ踏み出した瞬間、ぐにゃりというかモフリというか、全身に不思議な感触がありました。
目の前には見たこともないきれいな草原と青空が広がり、暑くも寒くもない穏やかな空気を感じました。
「なるほど、ここが〝神の道〟なんですね」
広々としているのに、なぜか自分がどちらへ行けばよいのかわかります。
気持ちよく軽い足取りで歩いていました。
ややあって突然山の麓に出ました。
「おやまあ、ここは人間の世界の聖域のようですが……もう出雲かな?」
首をかしげているわたくしの長い耳に、誰かの声がしました。
「すみません、白兎さん。あなたはオオクニヌシノミコトに助けられて神になったうさぎさんではないでしょうか?」
「はい、そうですが」
「途中で呼び止めて申し訳ございません。どうしてもお願いしたいことがございまして。僕の話を聞いていただけませんか?」
〝神の道〟に介入できるのですから、どこかの神様か精霊でしょう。
「承知致しました。えっと、どこにおられるのですか?」
「もう少し山を登ってきてください」
声に従い、なだらかな斜面を上っていきました。
すぐに周囲にしめ縄を張った大きな石碑の側にいる赤い猪が見えてきました。
わたくしをご存じのようですが、一応先に名乗りました。
「こんにちは。因幡の白兎、今は名前をいただきシロナガミミノミコトと申します。あなたは?」
「僕は元は焼かれた大岩で、わけあって赤猪になりこちらに封じられております」
なんともまあ奇妙な話でございます。
「ずいぶん変わった経歴の猪さんですね。封じられたということは何ぞよからぬことでもなさったのですか? わたくしにどのようなご用なのでしょうか?」
赤い猪はしめ縄が張られた場所からトコトコ出てきました。
「このしめ縄と石碑は建前では封じるためなんですが、実際には僕を守るために用意してくださったんです。だから僕自身は出入り自由なんですよ」
「失礼しました。粗相があったわけではないのですね」
わたくしは丁重に謝りました。
赤い猪はあわててさえぎりました。
「謝らないでください。僕がとてもひどいことをしてしまったのは事実なんです。もう一度おききしますが、あなたはオオクニヌシノミコトに助けられたうさぎさんですよね?」
「はい、そうです」
「僕はそのオオクニヌシノミコトを殺したことがあるんです」
いやいやいやいや、あの方は生きてますよ。
わたくし、これから会いに行くんですし。
「ご存じないですか? あの方、根の堅洲国へ行かれる前に兄さんの八十神に二度も殺されては生き返っているんですよ」
八十神と聞いて、はっとしました。
ワニザメに皮を剥がれたわたくしにインチキ治療法を教えてさらに痛い目に遭わせてくれた神々ですよ!
「初耳です。わたくしも八十神のせいでたいへんな思いをしましたが、オオクニヌシノミコトも殺されたのですか? それは存じませんでした」
赤猪は暗い表情になりました。
「あなたを助けた後、ヤカミヒメはオオクニヌシノミコトを夫に選びましたよね。そこで終わりなら良かったんですが、選ばれなかった八十神がたいそう怒って弟のオオクニヌシノミコトを殺す計画を練ったんです」
ああ、納得です。
やりそうですよ、あの神々なら。
でも目の前のしょんぼりしている善良そうな赤猪さんが物騒なことにつながるとは思えません。
「その殺害計画と猪さんがどう関わるんですか?」
「八十神は大岩を真っ赤に焼いて用意して、オオクニヌシノミコトに『この辺りを荒らす悪い赤猪を上から追い立てるから、下で捕まえてくれ』って欺して、待ち受けていた弟神に真っ赤に焼けた大岩を落としたんです。僕は、その赤い岩が八十神やオオクニヌシノミコトの神気を受けて意思や感情を持つようになった存在なんです」
「あらま!」
「僕、嫌だって言ったのに。何度も八十神に『やめてください、そんなことしたくない!』ってお願いしたのに、あの神様達は『オオクニヌシノミコト憎し』のパワーと馬鹿力をみんなで合体させて僕を押し出したんですよ。山肌を滑り落ちながら一生懸命オオクニヌシノミコトに向かって『どいて~! 僕、猪じゃないです! 逃げて~!』って叫んだのに斜面をすれる音のせいか聞こえていなかったらしくて、焼けた赤岩の僕を抱え込んで大やけどして死んじゃったんですよ」
赤猪はしくしく泣き出しました。
「オオクニヌシノミコトに抱えられたのが最後の決め手になって、あの強い神力のために僕は赤猪になりました。遺体の横で申し訳なくて泣いていたら、母神のサシクニワカヒメがおいでになって嘆かれて天に願って、赤貝の神キサガイヒメとハマグリの神ウムギヒメが降りてきてくださって、薬を作ってオオクニヌシノミコトを生き返らせたんです」
すごい話です。
弟を卑怯な手段で殺す兄神たちに、殺されても生き返った弟神。
いやはや神の世界はたいへんなものです。
赤猪さんは泣きながら続けました。
「オオクニヌシノミコトと母神に僕は何度も謝りました。お二方とも『おまえが悪いんじゃない。気にしなくていいから』と慰めてくださって。そしてしめ縄を張って石碑を置いて『私を殺せなかったから八十神が逆恨みしておまえをいじめるかもしれない。この中に入っていなさい』とオオクニヌシノミコトがおっしゃって僕を守ってくださったんです」
「お優しい方ですよね」
「そうなんです、本当にお優しい方なんです。だからこそ申し訳なくて」
赤猪さんは涙をぬぐいました。
「その後も八十神に殺され、また母神が生き返らせ、ついにお母様が『このままではどうあっても八十神に殺されるから根の堅洲国のスサノオノミコトのもとへお逃げ』とおっしゃって、オオクニヌシノミコトは根の国へ行かれ、お帰りになられてからは大活躍で国造りをなさっておいでだと風の便りで聞きました」
「存じませんでした。そのような理由で根の国へ行かれたんですか」
驚きつつも、すごい話だな~と感じてしまいました。
二回殺され生き返り、もう殺されないようにと死の世界へ逃げる。
究極の殺害回避方法ですが、結局死んじゃうのでは?
うーむ。
赤猪さんは悩んでいるわたくしをじっと見つめました。
「あなたは最近、オオクニヌシノミコトにお会いになりましたか?」
「これから出雲へお訪ねする途中なんです」
死を免れるために死ぬという難解な状況への思索はいったん置いておいて、わたくしは自分の身に起きた出来事、ヤカミヒメの命で神の心得を学びに行くことを詳しく話しました。
赤猪さんは嬉しそうな顔になりました。
「よかった! 僕は神気によって岩から猪になったとはいえ力が弱く、この地を離れられません。だからオオクニヌシノミコトに連絡を取ることも出雲へ訪ねていくこともできないんです。僕があなたを呼び止めたのは、もし白兎さんがまだオオクニヌシノミコトとつながりがあるなら伝言をお願いしたかったんです」
わたくしは立場は違えどオオクニヌシノミコトに関わった赤猪さんに親しみを感じていましたから、即座にお答えしました。
「もちろんお引き受けしますとも。どのような伝言でしょう?」
「八十神に無理矢理やらされたとはいえ殺してごめんなさい。今も後悔しています。国造りが成功し、良き支配者としてお幸せに暮らされますようお祈りしておりますと。今でも火傷したところが傷まないかなって気にしていたんです。殺した僕を許してくださって守ってくださったのに、僕には何もできないので……」
最後の方はもぞもぞと声が小さくなっていき、眼には涙が浮かんでいます。
わたくしは自分の前足で赤猪さんの前足をしっかり握りました。
「確かに承りました。オオクニヌシノミコトにお伝えしますからご安心を」
泣き濡れた顔で小さく微笑む赤猪さん。
どれほど罪の意識にさいなまれていたのでしょう。
まったく八十神はむごいことをしたものです。
根の堅洲国から戻ったオオクニヌシノミコトに討たれてしまったのは、当然の報いですとも。
「それでは出発します。またお会いすることもありましょう。赤猪さん、ご自分を責めてはだめですよ。オオクニヌシノミコトはそんなことを望んではおられませんよ」
小さくうなずく赤猪さんと別れを惜しみつつ出雲へ向かいました。
早く着きたい一心で、わたくしは二足歩行で急いだのでございます。
つづく
次回は出雲でオオクニヌシノミコトに再会します。
ご家族に紹介され、どんな〝神の心得〟を教わるのかお楽しみに。