『放浪記』 憧れの食事と実際の食事
『放浪記』には当時の生活がリアルに描かれている点も興味深い。
(バナナに鰻、豚カツに蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)
気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。
お母さんは八百屋が貸してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見るとフクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいと思う。
林芙美子『放浪記』第一部より
子守として住み込んだ家で、あるいは母親と一緒に暮らしているときに、豚カツを食べたいと思っている情景だ。
この時代には豚カツは手が届かない高嶺の花ではないものの、そう気軽に食べられる値段の料理ではなかったらしい。
すでに千切りキャベツと豚カツは合い物となっている。
八百屋からキャベツをツケで買ってきたくらいだから、当然金銭的に困窮している。
そんな生活の中で、豚カツは思いっきり食べたいご馳走だったのだろう。
写真の豚カツは自分で揚げたものだ。
小麦粉に軽度のアレルギーがあるため市販の豚カツやフライは食べないようにしている。
自分で米パン粉を使って揚げなければ食べられないから、林芙美子とは違う意味でめったに食べられない。
久しぶりに豚カツを揚げた。そして手持ちのキャベツをさっと千切りにして、と言いたいところだが私はキャベツの千切りが大の苦手。写真の千切りキャベツはプロの料理人である知人が哀れんで分けてくださったものだ。
キャベツ自体が良質で鮮やかな手つきで刻まれた千切りキャベツは、フクフクの豚カツとベストコンビで、当時の林芙美子には申し訳ないが美味しくいただいてしまったのだった。
貧しい時代に実際に芙美子が食べていたものは、ちくわの煮物やサンマの類い。
そして仕事を失い次の仕事を探しながら木賃宿に泊まっているときは、安い飯屋に入っている。
(十二月×日)
朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を飲んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駆け込むように這入って来て、
「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
大きな飯丼。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。(中略)
私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗らかだと思う。
『放浪記』第一部より
なんとなく興味を持って十銭の定食を作ってみた。
安い飯屋なら牛肉ではなく豚肉か?
豚の小間切れを少量、長ネギと木綿豆腐をたっぷりと使った肉豆腐。
さすがに濁った味噌汁は作れなかったので普通に。
前回の味噌汁もそうだが、具が小松菜の茎で葉がないのは我が家の事情による。
元気印の白兎を飼っていて、このウサ子は小松菜や青梗菜の葉は食べるが茎は食べない。そのため、あらかじめ茎を外して葉だけをうさぎのゴハンにし、茎は飼い主が食べている。
必然的に、茎ばかりの汁物やおかずになる。
毎日かなりの量になるので必死に食べていたら、おかげで理想的な野菜摂取量であることが血液検査でわかり、嬉しいような情けないような複雑な気分になっている。
私の食事事情は別にして、『放浪記』のこのシーンは貧しい生活の中で懸命に生きている姿が、朝の飯屋のさりげない風景の中に描かれている。
当時の職業や風習を垣間見る資料として読むこともできる。
古典が古典たるゆえんなのだろう。
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