久しぶりにーーーどうしてもなんか書きたくなった。僕は毎朝黒板に連絡帳を書くのだが、その隣にちょっとした言葉を付け加える。今日も1日頑張れ〜とか毎日頑張っててえらいぞみたいなものを3.4行くらい書く。伝われなんて思ってないけど、1人でも何かのきっかけになってくれたら嬉しいななんて思っている。 言葉って思ってるだけじゃ伝わらないし、それを声にしたり形にしたりしなければ伝わらない。今日はラーメンを食べたい!と思ってラーメン屋さんに行ってチャーハンを頼んだらラーメンは出てこないです
またまた先日なんだけれども、運動会があった。本当に素晴らしいの一言。今まで経験した中で1番素晴らしかった。本番だけが見られがちだけれども、本当に練習頑張っていた。運動会のテーマはいいチームになること。あれをいいチームと言わずになんと揶揄するのか。というほど素晴らしかった。彼らは本当にすごかった。どんな場面でも自ら考えて行動できていた。何よりも彼らの本気の行動が大人を本気にさせるし、みんなを本気にさせる雰囲気にさせていたように感じる。よかったなあ〜
先日僕は夜に走っていたんです。そうしたら突然景色が変わって気づいたら転んでいたんです。何かを踏んでしまったようで、本当に痛くてちょっとの間うずくまってしまっていて。勤務している場所が近くにあったので行こうかと思ったくらいに痛くてどうしようと思っていたところ、通りかかってくれたいかついお兄さんがどうしたんだいと声をかけてくれたんです。事情を説明したら家まで送るよと言ってもらえて。僕はもう歩けないくらいに痛かったのでお言葉に甘えて送ってもらったんです。もうこんなことをしてくれるだ
この週末岩手県に行った。目的は学生時代の友人に会うため。彼は運転してくれて色々なところに連れて行ってくれた。本当にありがとう。彼の芯の部分を知る事ができたしもっと仲良くなれた。これからもずっと仲良くしていきたい思いが強まった。 そして今日は東日本大震災伝承館に行った。言葉にするのは難しいが、ものすごくリアルだった。どれだけ頑張っていても自然の脅威には逆らえないんだなって。綺麗事だけれどもこの出来事を過去のものとして捉えることは絶対にいけないし、未来に僕たちの世代がしっかりと継
大好きな人に振られた。いや振られてはいない 好きな人というのも大好きな野球選手が退団するだけなんだけれども。僕にとってはすごく大きい。たかが贔屓のチームから選手が1人いなくなるだけかもしれない。でも本当に悲しい。人生で1番ではないけど5番目くらいに悲しい。好きとかじゃないもう愛してる。もうあの応援歌が歌えなくなる。好きなチームのユニフォームを着てプレーが見られなくなる。違うチームでプレーするんだ悲しい
自己価値って生きる上ですごく大切なことだなと思う出来事があった。言い換えるならば自分の強みなのでしょうか。私はよく誠実と言ってもらえる。真面目だからなのでしょうか。それとも正直すぎるからなのでしょうか。他者から見た私はわからないので何とも言い難い。僕は偽善者でも嘘を言いたいわけでもないけど、本当にいい世界を作りたい。だからこそ誰かにとってたかがそれくらいと言うことでも、きちんとその人に合った向き合い方で接したいし、僕が愛している人全ての人に幸せを見つけてもらえるような瞬間を分
つかれたつかれた
私はとても馬鹿なので素直に感情に現れる事が多い。嬉しさも悲しさもすべて。その中で緊張だけは全く感じない。緊張という感情は不思議だなって思うんです。緊張はなにから湧いてくるのか本当の理由はわからないけど、自分の妄想で作り上げた世界に悲観しているからじゃないかなって考えています。私はもともと緊張強いでしたが、高校生のある時期から全く感じなくなった。もちろん心の成長もあると思うんだけど、この考えに辿り着いた時に緊張はなくなった。 やはり未来は見えないものですし、色々考えて対策した方
最近普通って変化していくものなんだなって思う事がよくある。私が小さい頃の普通は今の子達からしたら大袈裟に言えば異常になる。私が小さい時の普通は学校が終わったらすぐに友達と遊びに行っていたし、連絡手段も家電だった。余談だけど、友達の家に電話を掛ける時誰が出るかわからないからすごくソワソワしていた記憶が蘇ってきた。でも今はスマートフォン端末で済んでしまう。 これはただの一例にしか過ぎないけど、その時に都合がいいから普通って呼ばれるのであって普通なんて存在しないんじゃないかと思う。
今日も走った。あと1キロかななんて思ってたところで保育園の子供達が僕に向かって がんばれえええ!!!って言ってくれた。つられて、何人かの子も言ってくれた。頑張れたし素敵だし可愛い。良いことしかなかった。 やっぱり言葉にするって素敵だ キッズたちよ、君たちがもう少し大きくなったら学校で待ってるね たくさん愛されて育ってね!
僕はまだプレイヤーとしてスポーツをしている。そろそろ辞めようかなって考えた時も多くあったけど、まだ続けていられている。でももう終わりかなとも思っている。 僕がやめない理由の一つに勝ちたいっていう思いが強くある。誰かと競って勝利を得るのではなくて頑張って頑張って得られる勝利ってあると思う。なんか目に見えないしただの自己満でしかないんだけれども、こんだけ辛いとか絶望な状況を乗り越えたーみたいに嬉しさありきの勝利がある。一緒に頑張った人たちとお互いを認め合う瞬間もたまらなく好き。
この職業についてから思う事があって、頑張る人と頑張らない人の差ってどれだけ自分を満足させたかでやれる量が変わるんじゃないかと。 頑張っている人も悪くないし頑張らない人も悪くない。どちらかを確実に否定する事ができればこんなことは気にならない。だけど頑張っている人は自分がこんなに努力しても報われないって思うし、頑張らない人も他の人あんなに頑張っているって焦る思考に陥る。そもそも頑張るって主観でしかないし目に見えないからほぼ意味を持たない。ただ人から見てボリュームがあるからすごい
僕は最近よく人と人は分かり合えないんだなって強く思う。その理由を強く支持できるものはないけれども、自分の見ている自分と他人から見た自分のギャップがその要因の一つなんじゃないかって思う。人は少なからずいい自分を見せたいと思う欲がある。だから少し無理をしてしまい言い過ぎかもしれないが結果的には自分の精神を傷つけてしまう。そんな事がヒトの仕組みとして起こってるのではないかと考える。 現代人の心の支えは目に見えない他者からの評価だと思う。いわゆるいいねってやつだ。あの誰でもタップで
僕は頑張れって人に言うのは無責任だなってふと思った。時と場合によるけれども、人の頭の中は見えないからどんな気持ちかわからない。すげえ頑張って魂削ってる人だっているはずだし、もう無理だ頑張れないって気持ちの人だっているはず。だからこそ頑張れじゃなくて他の素敵な言葉で、応援の形を伝えたい。 子供達と接する時にはちゃんと見てるからね少しずつでいいから変わっていこうという言葉をよくかける。素直だからこそきちんと言葉を受け取ってくれる可愛いところがある。 一方、大人には何で言葉をかけ
僕が小学生の時に入っていたクラブチームの監督はとても熱い人でした。筋が通った指導をしてくれました。自分で決めたことは最後まで絶対に逃してくれないし、少しでも手を抜いたら本気で怒られる。生きるために必要なことを教えてくれました。この監督に出会ってから僕は本気で熱く何かに取り組めるようになった気がします。怖いけど大好きな監督です。 「その一瞬にすべてをかけろ」と監督はよく僕たちに伝えてくれました。僕はアホなので小学生の時は全然意味が分かりませんでした。でも今はもうその瞬間を本気
僕には褒め上手な友人がいる。嫉妬してしまうくらいに。 先日会ったんだけど急に、 お前って他人を受け入れられるのすごいうまいよね、マジすごいわって言われた。そんな事初めて言われたし、そんなこと思ってもいなかったから嬉しかったしすぐハイタッチした。おそらくだけど、私は自分の知らない世界で生きている人の考え方とか価値観を聞くのが好きなのでそう見えているだけな気がする。 嬉しいけどどこで生かされるんだろうって思った時に、社会に出てから受け入れるとかタイトルにあるように適応するって