ひとりで生きようと思うのは、人と生きるのが恐いから#47
今日はあまり日記を書きたくない気分だ。きっと今の気分を言葉にしたくないからなのだろう。言い換えれば、過ごしたくない時間を送ったからなのかもしれない何がそう思わせているのか少し考えてみたい。
不満の正体
やりたいことはたくさんあるし、それをやれるだけの環境もある。そして、現に色々と好き勝手やっている。ただ、どれもやりきれていない感覚がある。その中途半端さが不満を生んでいるかもしれない。もっと楽しい時間の過ごし方ができたと思っているのだろう。
そもそもやりたいことというのは主語が私(I)だけだ。わたしたち(We)ではない。だから、ひとりでただやり切ることが大事だと思っている。そして、それができていないから不満を感じている。
不満の源にある自分の願い
そういえば、いつだかの自分はこんなことを書いていたことを思い出す。
だから、決めたのだ。ひとりで生きることを。それは人と生きることの裏返しでもある気がする。ひとりで生きるからといって人と生きないわけではない。むしろ、ひとりで生きるためにも人といなければならない。二という存在があるからこそ、一を感じられる。
きっと人に頼ってばかりの自分を何処か情けないと感じていたのだろう。「人とともに生きたい」という願いのために、まずは「ひとりを生きる」を実践しようと決意したからだ。結局、日記に残したくないのはできていない自分を見たくないからなのだろう。それは自分のいのちの軌跡の否定ではないだろうか。
引用した日記の2日後には”清く美しく生きたい”といい、その先に浮かんでいるイメージについてこんなことも書いていた。
全ての感情の存在が許可されたところなのかもしれない。
今の自分は、まだ自分の感情の全てに許可をしていないと思う。ありのままを見ようとしていない。何処か見ないようにしている。
それはとっても自然なことかもしれない。人間、自分の醜いところは見たくない。そして、それをみる必要が必ずしもあるわけでもない。
でも、自分は自分のありのままをみたい。ありのままを見ることができないと人のこともありのまま見れないのではないかと思っているからだ。その人のそのままを、自分は見たいし、感じたい。
願いとともにある恐れ
そう願う一方で、恐れを感じている自分がいることにも気づく。やっぱりどこかで「人を傷つけてしまう。不快な思いをさせてしまう」と思っている。それがどうしても嫌らしい。人と生きるうえで、傷つけあったり不快な思いをさせあったりすることは一部だろうに。とはいえ、それを避けたいと思うのもまた自然か。
そもそも願いも恐れもどっちもあっていいものなのだろう。どっちもあることが自然なはずだ。ただ、願いベースで生きていけるようになりたいと思う。そのためには、恐れを克服する力であったり、恐れに飲み込まれない力が大切だろう。
最近、少し長くなりがち。まぁ、自分が読むためのものだからいいか。
と思いつつも、そろそろ誰かの役に直接役立つようなnoteを書きたい気持ちもある。やっぱりセルフコーチング関係なのだろうな。
2021.11.16.23:40