文章練習 エッセイ「客観は『正解』にたどり着けるのか?」
『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』(八木龍平著、サンマーク出版)に寄せて
私は、無意識に感情より思考が先立つ性格で、問題解決や実験が好きだ。10代の頃は、たいていの物事には正解があると素朴に信じていた。客観的な考え方を積み重ねていけば、事実を正しく理解し、公平な判断ができると思っていた時期もある。
そして客観に傾倒しすぎた結果、「コーヒーと紅茶、どっちが飲みたい?」と母に聞かれても答えられなくなった。
(家にあるコーヒーと紅茶のストックは同じぐらい、1杯分の値段を考えるとコーヒーの方が経済的か。他の人はコーヒーと言っているから、同じものを選べば入れる人の負担も減る。でも、平均的なカフェイン量は紅茶の方が少ないし……)
つらつら考えるが決定打はない。何を良しとし目的とするかで、選ぶべきデータも優先すべき事柄も変わってくる。
「こんな単純なことも答えられないの?」
いつまでも迷う私に、母はあきれた。
客観性はゴールを設定してくれないのだと思った。極端すぎて笑い話だが、厳密に客観的であろうとすれば、科学的証拠や数値への認識と、解釈・判断する機能は別だと気付く。
例えば健康に配慮して、コーヒーよりカフェインの少ない紅茶を選ぶとき(※)、「健康を保ちたい」と判断するのは本人の価値観だ。客観的事実は紅茶1杯分のカフェイン量を示し、それが体に及ぼす影響を予測できる。しかし「飲むな」とは言わない。カフェインの影響を知った上で、眠気覚ましにコーヒーを選ぶ人もいる。
なんなら、カフェインは体に毒だというストーリーを作ったのも、社会的な流行といえる。現代人の生活習慣から、あえてカフェインの害をピックアップしているわけで、10年後には別の理由によって、カフェイン推奨の物語が主流になる可能性もある。
主観と客観は両方とも大事だ。客観は、主観が独りよがりになるのを防ぎ、現実的な判断を支えてくれる。ただ、最終目的を決めるのが主観だとしたら、意識的かどうかはともかく「正解」は自分で選ぶほかないだろう。
もし人生の満足度を上げる方法があるとしたら、自分にとって一番重要な価値観を、周囲から評価される形で実現することかもしれない。まあ、本当の望みは自分でも分かりにくいのが難しいところなのだが。
※出典:日本食品標準成分表(八訂)増補2023年 第2章(データ)|文部科学省
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