未練
「あなたは正社員なんだから、ボーナス後といわず、今すぐ買えるはず」
ここまで読んだとき、大切に、ずっと守ってきた細い糸が目に浮かんだ。
入社7年目に、企画から品質保証部に異動した。花形の企画から、地味で堅くて面白みの少ない部署への移動に不満しかなかった。しかし、何かと「気づいてしまう」性格が、書類チェックや工場監査の業務に予想外にはまった。真面目を絵にかいたような同性の上司Aは、丁寧に一から指導し、力量がついたら任せ、何かあったら盾となってくれた。そんな上司は後にも先にもいなかった。私は自分と正反対のAのことが好きだった。
3年半が過ぎ、企画への未練もあったけど、ここでキャリアアップしてもいい、Aのようなキャリアも悪くない、そう考えた矢先のことだった。
その日の朝、私とAは、同業者の品質保証担当者が集まる会議に出席していた。
帰社後、目の前に座っている上司から一通のメールがきた
件名:本日の服装について
本日はお疲れさまでした。スニーカーを履いていましたが、
今後はTPOに合わせた服装を心掛けてください。 A
友人の披露宴参加で靴擦れをつくった私は、いつもの黒いパンプスではなく、靴下と白い革のひも靴を履いていた。私の中でそれはスニーカーではなかったし、会議の女性出席者でジャケットを着ていたのはAと私だけ。派手なワンピースの人もノーネクタイの男性もいた。
いろいろ言いたかったが堪え、靴擦れが理由だったことを添えて詫びると、「値は張るけど靴擦れができにくいビジネス用の靴もある」と返された。いつものパンプスで靴擦れが出来たわけではないと思いながらググって出てきた靴は、お世辞にもおしゃれなデザインではなかった。靴擦れが治りさえすれば…とウェブページを閉じ、それでもAの気持ちを無下にはしたくないと妥協案を送った。「今すぐ買えないので、次のボーナスで検討します」。これに対する返信が冒頭の一文だ。
そのころ私は、奨学金返済と周囲の結婚ラッシュが重なりカツカツだった。正社員なんだから? いくら上司でもお財布事情に口をはさむのはルール違反だ。
さらにAのメールはこう続いた。
「靴が問題なので、しばらく外に出る業務から外れてもらいます」。
ずっと守ってきた細い糸がぷつっと切れた。怒りより、悲しさと悔しさが溢れ出た。
2カ月後、企画部門への移動が決まった。未練があった部門への返り咲きなのに、あまり喜べなかった。
あれから5年。新聞で「スニーカー通勤の推奨」という記事をみて、鼻の奥がツンとした。
あの時何がAの琴線に触れたのかは今もわからない。ただ、「もっとクリエイティブなこともできるけど地味な仕事も悪くない」、そんな傲りがあったこと、今ならわかる。
守れなかった細い糸が、今も心のどこかに絡まっている。
※これは、編集ライター養成講座の課題「嫌いなもの」で書き下ろした文章を転載しています。
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