ミス
「わざわざ人に話すほどではない、けれども誰かに共有したくなる、ちょっとした日常のミス」というものがある。
お昼ご飯を食べようと思って、冷凍してあった昔の残りの白米を電子レンジにかけた。ちょうどチンが終わったタイミングで、炊飯器にお米が残ってることに気がついた時。文明の力で温め直した白米を食べた後、炊飯釜で先程まで温めていたお米をラップにくるんで冷凍する。なんとも形容しがたい労力の手間。なんか、1日分の損をした気持ちになる。
また昨日は、こんなことがあった。
夜にお風呂に入る際、まだ入浴の済んでいない父親に「先に入るね」と声をかける。シャワーと湯船で1日の疲れを癒やし、体も心もポカポカになる。いい気分だ。お風呂上がりに父親に「お先に。おやすみ。」と声をかけて、自室に入って就寝。ちゃんと、入浴の前後の声かけとおやすみなさいが言えた。家族とのコミュニケーションが取れている私、いいぞ!
今日の朝起きたら、開口一番に父親から「昨日の夜、お風呂の湯が抜いてあったよ?」と声をかけられた。
いや、ほんとに、誓って言うが父親への嫌がらせではない。今思い返しても、風呂の栓を抜いた記憶がない。私がお風呂を出てから父親が入るまでの間に、お風呂の妖怪が栓を外したんじゃないのか。そうか、よーうーかーいーのーせーいなのね!そうなのね!
という冗談はさておいて、こういうちょっとしたミスというのは、わざわざ勢い切って誰かに話すようなことではない。かと言って、自分の中にだけ留めておくのも、なんか勿体ないなという気が私はしてしまう。
私は、日常のはざまで、言語化されずにこぼれ落ちてしまいそうな体験を見聞きするのが好きだ。その内容はミスに限らないが、普段は見過ごされている違和感や間違い、正しさ、面白さ、悲しさをアウトプットするという行為は、とても意義があることなんじゃないかと思っている。その意義というのは、別に具体的に何かの役に立つということではない。ともすれば注目に値しないものとして切り捨てられそうな感情やエピソードを拾って集める行為は、日常の精神的な豊かさを追求する、立派な方法の一つだと思うのだ。
と、御託を並べておけば、自分のミスも多少は前向きに捉えられるのではないかと期待して、今日も今日とて生きていこう。日々の生活を彩るのは、結局のところ自分自身が持ち合わせる視座だったりするのだから。