「なぜ、人を殺してはいけないのか」 ―哲学と論理編ー

結論

人であるAが「人(B)を殺すのが正しい」と主張するなら、同じく人であるBもまた「人(A)を殺すのが正しい」という同じ論理を持つ。
その結果、AもBも共に「無くされる存在」ということになる。
存在者であるAが、自らを「無くされる存在」と自己否定を認めるのは、自らの存在の否定であり、論理的に自己矛盾を生じさせる。

理由

人を殺すという行為

まず「人を殺す」ということは、命を奪うことであって、生命たる人を単なる物体にしてしまう行為です。言い換えれば、相手を「無くしてしまう」行為と言えます。

しかしながら、それが現実的・物理的可否はともかく、論理的には全然、正当化できる行為ではありません。

人を殺すことが正しくないという論理

①人を殺す正当化が正であれば、究極的には同じ「人同士」であるため、自分も相手も「人を殺す正当化」という同じ論理をもつことになります。

②その「自分も相手も人を殺す正当化」という論理の下では、自らも相手も互いに互いが、その人を殺す結果である「無くされる存在」になります。

③仮に、人が「無くされる存在」なのであれば、人は存在ができなくなってしまいます。つまり、相手を殺すことは、同時に同じ人である自分自身の「無くされる存在」の肯定でもあるからです。

私は、ここに人殺しが論理的に誤りであって、正しいことではないということの論理があると考えています。

論理矛盾してしまう瞬間

上記で、人殺しは論理的に誤りであることを説明してきましたが、現実には稀に人殺しを行う人がいます。

その人らは「自分と相手は違う存在だ」という論理でしか、その人の存在がないわけですが、しかし、実際は人同士なことは明白なわけです。その上で、その人らは、人殺しという現実行為を行ったことによって「人殺しの正当化」をしています。

つまり「人殺しの正当化」を現実行為で行っておきながら「自分と相手は違う存在だ」と、矛盾することをしています。これが殺人者の絶対的な特徴です。

論理として正しくないんだけれども、物理的に可能であることを優先させ、正しい選択をせず、自己否定し、非論理的な行動ということになります。

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