ショートショート/「蜘蛛の糸2021」
DNAは争えない。
カンダタの孫であるクンダタもまた祖父と同じく、生前に犯した数多くの罪で血の池地獄に落ちていた。回りには、クンダタが生前泣かせた女たちの怨念と恨みの思いが無数の般若となって蠢いていた。
地獄に墜ちて三日三晩、般若たちに足を引っ張られ、池の中に頭までずっぽり沈んではまた浮かぶ果てのない苦しみに喘いでいたが、ふと気づくと、天界から一本の金色の糸が静かに降りてきていた。
「こ、こいつぁ、夢に出てきた爺さんが言ってた例のやつだ!」
クンダタは狂喜したが、すぐに爺さんの話を思い出して真顔になった。
「確か、こいつにつかまって天に上がろうとすると、他の奴らも俺の後ろに続いてくるんだよな。で、そいつらを振り払おうとすると、糸が切れ、俺も奴らも元の木阿弥ってわけだ」
クンダタは相変わらず浮き沈みを繰り返しながらも、頭の一部で冷静に考えをめぐらした。
「爺さんの失敗を繰り返さねえためには、後に続く奴らと一緒に上がればいいんだ。おこぼれ頂戴の般若どもには腹は立つが仕方ねえ。まあ、言っても釈迦の糸だ。下手な動きをしなけりゃ切れることはあるまい」
クンダタは腹を決めると、池から頭がでた瞬間に腕を伸ばし、金色の糸をしっかりとつかんだ。力を込めて体を引きずり上げる。
「よし、うまくいったぞっ」
畳3枚分ほども宙に上がったとき、案の定、池に浮かんでいた般若たちがそれに気づき、金の糸にわらわらと群がり始めた。
「おっ、来やがったな」
焦りを感じたクンダタだったが、ここが我慢のしどころだった。下を振り向くことなく、上だけに目をやり、天に向かってそろりそろりと登り始めた。かなり登ったところで、
「しかし、さすがは釈迦の糸だ。びくともしねえ。このまま般若どもを連れてご挨拶に向かうとするか。へっ、こんな地獄、3日でおさらばよ」
クンダタはそう呟いて、何気なく下に目をやった。
やはり無数の般若が後に続いてきていたが、驚いたことに顔は魔物そのものだが、池から上がったその体は何と普通の女そのものだった。
しかも半裸の体に血に濡れた薄手の衣がべったりと張り付き、体の線を露わに浮かび上がらせていた。その妖艶な姿にクンダタは思わず目を奪われてしまった。
「おっと、いけねえ。くそ、なんて格好してやがる!ここまで来て、今さら落っこちてたまるか」
クンダタは2度、3度と頭を強く振り、再び上に向かって登ろうとしたそのときだった。
突然、糸の張りが無くなったかと思うと、次いで天の方で大きな叫び声が沸いた。
クンダタの体は宙に投げ出され、血の池地獄に向かって真っ逆さまに落ちていった。その途中、クンダタの目に、金色の糸の端を手にした男が上から落ちてくるのが見えた。
「ま、まさか、釈迦?」
やがて、先に落ちた般若たちのしぶきが次々と上がり、カンダタと天からの何者かのしぶきがそれに続いた。
池から顔を出したクンダタは茫然とした顔で、天からの訪問者を見つめた。
男は右手で金の糸の端をまだ握っていた。左手には杖を携えている。釈迦ではないようだった。
「だ、誰だ、お前は!」
男は飄々と答えた。
「また、やってしもうたわい。人はワシをこう呼ぶの。久米仙人・・・と」
久米仙人といえば、厳しい修行の末に神通力を得て空を自在に飛べるようになったものの、ある日、川で洗濯をしている美しい女の白い足に目を奪われ墜落してしまったというエピソードがある。
クンダタも子供のころに、絵本か何かで読んだことがあった。
こいつが、あの仙人か!?
久米仙人はにやにやしながら続けた。
「いやあ、オナゴはいかんのう。ついつい見とれて、足を滑らしてしもうたがな」
「てめえ、何で上にいた!そいつは釈迦の糸じゃねえのか?」
クンダタは久米仙人の右手を指差しながら大声で怒鳴った。
「お釈迦様はいま、針山地獄でお救い中じゃ。その間、この地獄はワシの担当となった」
「お前が?担当が落っこちてどうすんだ!!天に登れなくなったじゃねえか!」
「なーに、心配するな。ワシが天から落ちたのはこれが最初ではないぞ。お釈迦様はあちこちの地獄を回られて、またここに戻っていらっしゃる。お助け下さるからそれまで待てばよい」
「そ、そうか・・・。で、どれくらいで釈迦は戻る?」
クンダタは少し表情を緩め、尋ねた。
「そうじゃなあ。まあ長くみても・・・、」
久米仙人は過去を思い出すように目を閉じ、しばらくして瞼を開くと、こう言った。
「30年もかかるまい」