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ショートショート/「解き(ほどき)の旅」

19世紀初頭のイタリアの貧民街。
夕暮れの薄汚れた石畳の小道を男が必死に走っていた。
男は自宅にたどりつくと家の扉を壊れるほど勢いで開け、中に飛び込んだ。

「ル、ルチア!!」
少女は息絶える寸前だった。うつろな視線で男の顔を見上げ、何とか言葉を絞り出した。

「・・・お父さん」
「ルチア!しっかりしろ!!」

「日本・・・」
「日本?日本がどうした!」
「行ってみたかったわ、一緒に・・・」

少女の口がさらに何かを言おうとしたが、その言葉を父親に届けるだけの命の灯はもはや残されていなかった。

しかし、父親は彼女の口が最後にこう動いたのを見てとった。
“ありがとう、お父さん”

号泣する父親の声が部屋にこだました。

男は貧しい靴職人だった。嫁と娘の3人が食べていくだけで精一杯の家計では、急病の娘を医者に診せる余裕すらなかった。しかし、一方で家計を圧迫するほど酒に溺れていた男は、飲み代のせめて一部でも家に入れておけば何とかなったのではないかと、激しい後悔の念に苛まれた。

娘はどこで聞きつけたのか、東洋にある日本という国に興味をもち、よく家族で話をしたものだった。その国を訪れることはかなわなくても、せめてもっと娘と話がしたかった。

「許してくれ・・・ルチア・・・」
集合墓地の一角の小さな墓石の前でひざまずき、男は溢れる涙をぬぐうこともせず、いつまでもいつまでも娘の名前を呼び続けた。


喉元まで込み上げていた悲しみの塊が、突然かき消すように無くなったと感じた途端、男は目を覚ました。目元に涙が滲んでいるのに気づき、自分は夢を見ていたのだとさとった。

鈍く光るリノリウムの廊下から目を上げると、「手術中」のライトはまだ点灯していた。

妻が病に倒れて3ヶ月が経過したが、自宅での療養中も病状は思わしくなく、再度、家で倒れてから緊急入院、手術となった。入院後、丸2日以上、男は一睡もせず妻の手術の準備等に奔走した。その間、医師に呼ばれ告げられたのは、手術による確認次第では最悪の事態も覚悟してください、との言葉だった。

結婚してまだ1年。その言葉は過酷なものだった。
しかし、手術後、その医師の言葉は現実のものとなった。医師は言った。

“奥様と一緒に数日間、自宅で過ごしてあげてください。入院中の必要品や娯楽品等を準備するため、とでも言って”

その言葉が意味するところは、あまりにも明白だった。

数日間、妻はとても楽しそうだった。まるで初めて知り合った頃のような甘く切ないときを2人は過ごした。
やがて自宅を離れる最後の日・・・。

妻は男の腕に手をやり、顔を見上げ小さな声でつぶやいた。
「ねえ、帰って来れるよね」

男の返事を待たず、妻は同じ言葉を繰り返した。
「わたし、また、ここに帰って来れるよね・・・」

男はその場に崩れ落ちてしまいそうな深い悲しみと、絶望的な無力感を感じた。

この瞬間が最期の別れになるかのような焦燥を感じ、妻を思い切り抱きしめたいと心から思った。しかし、そんなことをすれば妻は不安に感じるだろう。

男はその衝動を何とか抑え、明るく答えてみせた。
「当たり前じゃないか。・・・そうだ、帰ってきたら、これからは可愛い子犬と一緒に暮らそうよ」

別れは突然、やってきた。
妻が再び病院に戻って3日目。医者からの連絡を受けた男は、蒼白な顔で病室に駆け付けた。医者はそっと部屋を出た。

妻はベッドの上で優しい微笑みを浮かべていた。
「ごめんね、忙しいのに」
「・・・・・」

男はもう溢れ出る涙をこらえきれなかった。

妻が再び、謝った。
「ごめんなさい、このまま黙っていようと思ったけど・・・。最後に言わせて」

口を開くのもやっとの様子だったが、これだけは言わなければ、という思いが伝わって来た。

「ついこの前、わたし思い出したの・・・。遠い、遠い昔のこと」

男はかすかに眉をひそめた。
遠い、昔?・・・

「わたしは・・・、わたしはあなたに会いに来たの・・・。とても、とても長いときを超えて」

彼女はその白く細い手を持ち上げ、男の頬にそっと触れた。
そして涙に濡れる男の瞳の奥に、永遠の時を探るかのような遠い目をしてこう口にした。
「私の名は・・・、ルチア」

男は目を見開き、息を呑んだ。

「この国で、一緒に暮らせて・・・、とても幸せだったわ」

やがて、彼女の瞳をかすかに震える青白い瞼が覆った。その瞼の端から一筋の涙が流れ落ち、最期の言葉とともに白い手は男の頬から滑り落ちた。

「ありがとう、お父さん」

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