イヤイヤ期を恐れている、2年半前の私へ
子どもが生後半年くらいの頃、私は「幸せ」と「不安」の間を反復横飛びしていた。
それは、良くも悪くも「赤ちゃんかわいすぎるだろ」、という感情のせいだった。
赤ちゃんは、あぅあー、とかしか言わないし、顔を一度隠したうえでまた出現させるだけの行為(いないいないばあ)で爆笑する沸点の低さだし、なんか体も全体的に柔らかくてプニプニしてる。この世にあるすべてのかわいいものの起源って赤ん坊なんじゃないかと思う。権利関係は大丈夫なのでしょうか。「赤ん坊©️」とつけるべきでは?
そんな幸せすぎる「ときめき赤ちゃんライフ」を送っていた私にとって、いつか赤ちゃんが赤ちゃんでなくなるのが、楽しみな反面ずっとずっと怖かった。こんなにふわふわした平和の象徴のような存在がいつしか意思を持つようになり、言葉を喋ったり、反抗してきたり、1人で学校に登校したり、自分で銀行口座を開設するようになったり、賃貸物件を契約できるようになるなんて考えられない。
特に私は、噂に聞いていた「イヤイヤ期」というものが訪れることを、心の底から恐れていた。
「イヤイヤ期」を知らない人のために説明すると、1歳後半から3歳くらいにかけて発生するマジで「イヤ!」しか言わないイミフな時期のことである。
親の提案は基本的に却下され、無謀で理不尽な要求が繰り返され、それに従えなければ絶叫が待っている。街中で地面に寝転がって爆泣きしている子供を見かけたことがある人もいると思うが、あれがそれだ。
子供の自我が芽生えた証であるとか言われているが、可能ならその「証」の表し方、もっと別の形にしてくんねえかな? 自我が芽生えた証、PDFとかで発行してもらってもいいですか?
SNSで「イヤイヤ期」と検索すると、親たちの阿鼻叫喚がずらりと並んでいて、まだ言葉すら喋らない時期から、いつか来るイヤイヤ期のことを私は恐れ続けていた。
そんな嘆きは露知らず、1歳後半頃、我が子にもイヤイヤ期がやってきてしまった。
イヤイヤ期、到来
あれはある平日の朝のこと。保育園に行くため、いつものように着替えを促すと子どもが逃げた。急いで追いかけると、「やだ!」と首を横に振っている。着替えが嫌なのだ。それまでは、なされるがままに服やオムツを替えさせてくれたのに。
困った私は、「お気に入りの服だよ!」とか「自分でお洋服選んでみる?」とか、「これとこれどっちがいい?」など、あの手この手で着替えを促すものの、こちらを見向きもせずすべて「やだ!」である。
平日の朝は、とにかく時間がない。自宅から保育園まで徒歩10分で、さらに保育園からバス停までは徒歩5分。そこから会社の最寄りまでは……と頭の中のガリレオ(福山雅治)がでっけぇ黒板を使って所要時間を計算している。その結果、今すぐに着替えさせて家を出ることで、ギリ5分くらい遅刻することが判明する。間に合っていない。
私は説得することを早々に諦め、子どもを羽交い締めにして無理やり着替えさせる。子どもはもちろん、「ヤダーッ!!」と大絶叫だ。これ、近所から虐待だと思われるんじゃないか……? とビクビクしながら、でもとにかく可能な限り短時間で手早く着替えを終える。そもそも着替えが嫌って何? どんな状態? 抱いたことない感情すぎる。
当初は着替えだけを嫌がっていたのだが、次第に私の言うことを基本的になにも聞かなくなっていった。
お風呂入ろう、も「イヤ」と言う。
お外行こう、も「イヤ」と言う。
ご飯食べよう、も「イヤ」と言う。
ねんねしよう、も「イヤ」と言う。
「こだまでしょうか」の、拒絶バージョンみたいなことになっている。
なんでも全部イヤなので、逆に「じゃあお風呂入らないでいいの?」とか聞くとそれも「イヤ」と言う。2歳児には論理とかがない。フローチャートが成立しない。
"かわいい"と"イライラ"のデットヒート
そんな、一見すると大変そうなこの時期の私の心の中は複雑だった。どうしてもイライラしてしまうこともあるけど、2歳はかわいい瞬間もかなり多い。いろんな言葉を覚えて必死で話しかけてくれるその一生懸命さで、米3俵くらい食える。一時期、なぜか敬語がブームになったときがあり、語尾がすべて「~でしゅ」になったり、私のことを急に「ママさん」と呼ぶようになったときは、かわいすぎて全日本かわいさ財団を設立するところだった。(この時期は一瞬で終わったので財団を設立せずに済んだ)
でも子どもに対してイライラするときはそんな普段のかわいさが一瞬で頭から忘れ去られてしまい、「なんでママを困らせるの!?」とか、感じの悪い怒り方をしてしまったりすることもあった。もちろん、子どもは私を困らせるために悪意を持ってやってるわけじゃないのは理解している。冷静になれば、この人まだ人生3年しかやってないんだよなと、自分の大人気なさにハッとする。そして猛反省する。
そんな風に、毎日毎日、イライラすることがあったかと思ったら、とてつもないかわいさが追い上げてくる。イライラとかわいさが毎秒デッドヒートを繰り返して、私の心の中はぐちゃぐちゃだった。
もしかしたら自分の姿はかなり不安定に見えているかもしれない。子どもを不安にさせたらいけないと考えた私は、毎日意識的に子どもに「大好きだよ」と言いながら抱きしめるという日課を作って、子どもへの想いが揺るがないことを変わらず伝えることにした。
複雑な感情、大爆発
子どもが3歳を迎える目前くらいの頃。私はかなり忙しく、テレワーク勤務をしている合間に子供を送り迎えして、夜に寝かしつけを終えたあと深夜まで仕事をする日が何週間も続いていた。心身ともに余裕がなく、とにかく眠いし疲れているし、早く寝かせないと次の日も朝起きるのが遅くなり仕事に間に合わないし、だから子どもと一緒にいる間はコミュニケーションも雑になり、とにかく早く次のタスク、次のタスクと常に焦っていた。ご飯が終わればお風呂、お風呂が終われば寝かしつけ、といったように、育児を楽しむ余裕なんてひとつもない。あんなにデッドヒートを繰り返していた「かわいさ」が劣勢になっていて、「イライラ」が勝利しそうなのを感じた。
あるとき限界が訪れて、寝かしつけが終わった夜22:00過ぎ、私は荷物をまとめて家を飛び出した。とにかく1人になって、自分勝手に時間を過ごしたい、という気持ちがあふれた結果、家出をしてしまったのだ。(もちろん家には夫も残して)
夜の街を1人きりで歩くのは、何年振りのことか。仕事帰りのサラリーマン、酔っ払いの集団とたった1人ですれ違うことに、私はとてもわくわくしていた。同時に、いま隣に子どもがいないことが、手持ち無沙汰でもあった。どこに行きたいという強い気持ちもなく家を出てきてしまったから、とりあえず最寄駅の近くにあるファミレスに入った。
席に通され、お酒とつまみを頼んで自分の時間を楽しむことにしたが、隣の席にいる家族連れが気になる。ディズニー帰りだろうか、たくさんのお土産が足元に置かれていて、小学校低学年くらいの男の子の兄弟が楽しそうに話している。「いま、口に氷が入っているでしょうか、入っていないでしょうか!」「うーん、入ってない!」「ブブー、入ってます!」みたいな謎クイズを本当に永遠にやっている。
それを見て、うちの子もいずれこのくらい大きくなるのかぁ、小学生もかわいいな、と思いを馳せる。
それからしばらくしてそのファミレスを出て、結局友達をひとりつかまえたので朝まで飲みに行くことになった。店に向かう途中で救急車を見かける。「あっ、ピーポーだ」と心の中で思う。子供がいたら「ほらあそこにぴーぽー停まってる!」と慌てて伝えて彼は「いたねえ!」と答えているところだが、現実の彼は私の隣にはいない。昨日、トミカでいちばんお気に入りの救急車を私に手渡して「ママこれ、やっていいよ。ぼくパトカーするの」と貸してくれた。優しい子だ。
それから結局私は、何かを目にするたびに子どものことを思い出し、すべてを子どもと紐付けて、気づけば無性に家に帰りたくなっていた。あれだけ1人になりたかったのに、もう子どもに会いたい。子どもがそばにいないのは、私にとっては心が落ち着かないことなのか。今の私には、家出は向いていないっぽい。子どもが目の前にいないにもかかわらず、感じたことのないほどの「愛おしさ」が、猛烈に心の中で増幅してきた。
当初は「なるべく長く1人でいるぞ!」と意気込んでいたのに、結局翌朝すぐに家に帰ることにした。その道中でも親子連れが目に入る。子ども、私がいなくてすごく不安かもしれない。泣いているかもしれない。自然と足は早まった。
玄関を開けると、すでに起きていた子どもが「ママ、ママーーー!!!!」と笑顔で走ってきて私に勢いよく飛びついた。ぎゅーーーと力強く抱きつきながら「ママ、だいすきだよ」と言った。私が毎日毎日、日課として言い続けた言葉だった。私もぎゅーっと抱きしめ返して、大好きだよ、といつものように伝えた。それから「ママ、なにしてたの?」と聞かれた。本当に、なにしてたんだろうな。
イヤイヤ期を恐れている2年半前の私へ
イヤイヤ期を恐れている、生後半年の赤ちゃんを育てている2年半前の私へ。ひとつ朗報があります。
言ってる意味がわからないと思うのだけど、イヤイヤ期マックスの3歳3ヶ月になった今、イライラとかわいさの勝負は、完全に「かわいさ」が勝利しています。かわいすぎて、大丈夫かな?と心配にすらなっている。私の、かわいさを感じる脳の一部、酷使しすぎて老朽化していないか? 今からでも「ハイパーかわいさ保険」に加入できますか?
イヤイヤの真っ最中は、相変わらずそりゃ辛いのだが、それ以外の瞬間は本当に尊い。3歳になって、たどたどしくも長めの文章を喋れるようになり、そのかわいさは天井知らずだ。
「おばけきたら、エイッてするの! だいじょうぶ、ぼくがいるからね」
「ママ、どこがいたいの? アンパンマンのばんそうこうペタッてする?」
「ママ、ねむいの? ねんねしていいよ。おへや、くらくしようねえ」
そんなふうに覚えたての言葉で私に声をかけて、私をケアしようと、その小さな体で奮闘してくれたりもする。でもその言葉は全部どこか聞き覚えがあって、普段から私が言っていることばかりなのだ。
「おばけ怖いのか~、大丈夫だよママがやっつけるから」
「虫刺されかゆい? アンパンマンのばんそうこう貼ろうか」
「眠くなったね、お部屋暗くするよー」
幾分か投げやりなこともあるのに、子どもは全部しっかり受け止めて、それを100%純粋な気持ちだけで私に返そうとしてくれている。
そして、私が毎日言い続けてきた言葉、
「ママ、だいすき」
も、子どもの方から毎日言ってくれるようになった。気恥ずかしさもあるけど、でもお互いに伝えると、心の中がグッとあたたかくなって、子ども愛しさマイルが1000000ポイント貯まる。
イヤイヤ期は大変だし、いつでも機嫌よくいることは難しい。でもそんな難しさと、子どもはかわいい、愛おしいという気持ちは両立する。私はその、かわいい、愛おしい気持ちのほうに重みを感じながら、結局、日々を切り抜けられている。
よく考えると、生後半年、不安になるほど可愛かったあの赤ちゃんと、今一生懸命に言葉を使って私にいろいろなことを伝えてくれるこの男の子は、同じ子どもなのだ。成長したらまったく別の生き物になってしまうと勝手に思い込んでいたけど、子どもの可愛さは同じようにずっと連なって、途切れることがないのだと知った。
無事にイヤイヤ期が終わったとしても、また新たな難しいステージに立ち向かうことになるのだろう。小学生は小学生なりの、思春期は思春期なりの大変さが待ち受けているに違いない。
だけどきっと、あの1人の夜に抱いた愛おしい気持ちをお腹の底に抱えながら、これからも私はなんとかやっていけるような気がしている。そんな自分への自信がついたのは、こんなに大変なイヤイヤ期のおかげだ。