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パラドックスの中のレジャー

みなさん、どのようなゴールデンウィークをお過ごしでしょうか。
現代社会におけるレジャーについての考察を掲げてみます。

1969(昭和44)年11月『講座 日本の将来 月報7』(第5巻「余暇時代と人間」)潮出版社

パラドックスの中のレジャー
        作田啓一 

 レジャーは人間にとってどんな機能をもつか。最も素朴な機能は疲労を回復させることであろう。日曜は家で寝て過ごすという勤労者が、今日でも少なくない。第二の機能は反復からの解放である。勤務先での勤労者の仕事や主婦の家庭内での仕事は、毎日、決まったスケジュール、決まった手続きで行なわれる。そのような単調な生活のリズムから解放され、劇場へ出かけたり、旅行を試みたりすることは、レジャーの魅力の一つである。第三の機能は、いわば自主性の回復とでも名づけられるものであって、外部から課せられたスケジュールや手続きによってではなく、自分自身のプランに従い、自己を表現することに伴う充実感の獲得であろう。大衆化されていないコースの旅行とか、日曜大工とか、サークルづくりとかがこれにあたる。

 以上の三つの機能は、J・デュマズディエが「リラックス」「娯楽」「パーソナリティの発展」と呼んだものにほぼ相当する。レジャーとは、「疲労」「倦怠」「拘束」からの解放にあてられる自由な時間である。この三つはあらゆる社会でのレジャーの機能ではあるけれども、人びとがレジャーにどの機能を特に強く求めるかは、その中で生活している仕事の世界の構造の違いによって異なる。生産力が低くて、長時間の激しい労働に多くの人たちが従事しなければならなかった社会では、レジャーとは何よりもまず疲労からの回復を意味した。生産力が上昇して、人間にとっての労働の量と質に関する苛酷さが緩和されると、休息のレジャーから活動のレジャーへの転換が起こってくる。レジャーは日びの労働力の回復のためだけではなく、非日常的な生活のリズムを味わうためにも意味をもち始める。

 最後に、レジャーに主として自主性の回復を求める社会が到来した。仕事の世界では巨大組織が登場し、大規模の生産設備と高度の技術を結合することによって、社会の生産力を急激に上昇させるにいたった。巨大企業が運営されていくためには、綿密な計画によって企業内外の不測のできごとが制御される必要があるから、企業の内部においても、そしてまたこの種の企業が強い影響力をもつ社会全体においても、物や人間の管理が進行する。このタイプの社会においては、人間の欲望も管理されて、企業が作り出す消費財やサービスに向かう欲望は、広告などによりかき立てられるが、そのような型にはまらない欲望は押さえられる傾向がある。また、仕事の場では、いわゆる官僚制組織が発達しているために、個人の創意や自発性は、トップ・レベルに属する人びとを除いて、抑制されがちである。

 自主性の回復をレジャーに求める傾向が強くなるのは、右に述べたタイプの社会であることは言うまでもない。ここでももちろん、疲労や倦怠からの回復をレジャーに求める階層や個人が存在しないわけではないが、それはいわばレジャーの現実の機能であるにとどまり、その機能の理念は自主性の回復に移った。しかし、このような理念を現実化することは、理念を生み出した社会構造そのものの制約によって、必ずしも容易ではない。すなわち、計画と管理が貫徹しつつある社会では、人間は枠組にはまった「官僚」として、あるいは操作されやすい「大衆」として形成されていくので、自主性の要求そのものを自らのうちに育成しにくい。私たちの多くは、仕事の場やその他の生活の場において、自らの自主性がそこなわれているということを気づきさえしない、これがまず、自主性をレジャーにおいて実現することの第一の困難である。第二に疲労や倦怠からの回復に要する時間や費用は、比較的少なくて済むけれども、自主性の回復には多くの時間、そうでなければ費用が必要である。たとえば、自分で映画を作り、それを気の合った友人に見せて楽しもうとする人は大変な時間と費用をかけねばならない。レジャー産業の企画するヨーロッパ一周旅行なら、五〇万円で済むが、寄せ集めの集団ではなく、ひとりで、あるいは気の合った少数で、同じ旅行を試みるなら、はるかに大きい出費と準備時間を覚悟しなければならない。今日ではレジャーの過ごし方はさまざまに企画化されている。

 レジャー企業の企画は小規模のものでは、トルコ風呂、キャバレー、バー、パチンコにいたるまで、いろいろ工夫されている。昔もそうだったかもしれないが、ただ今日では大量の大衆を扱うために、サービスの人為性(型にはまったサービス)が目立ってこざるをえない。それで、倦怠から逃がれるために出かけていくレジャーの場において、私たちはまたもや人工的な繰返しの待遇を受け、しばしば物として扱われていると感じざるをえない仕組になっている。しかし、この物としての取扱いを拒否し、レジャーにおいて自主性を回復するためには、私たちは大きな努力を支払わなければならない。レジャーの新しい理念を生み出した社会が、まさにその構造によって、理念の現実化を困難にしている。そのようなパラドックスの中で、私たちはレジャーを過ごしているのである。(京都大学教授)


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