井伊直弼(ニ)埋木舎の日々

前回「井伊直弼(一)出生」はこちら
https://note.com/sirdaizine/n/n05ba239fb776

【無料】日本の歴史 解説音声91本・18時間!
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/

●埋木舎における直弼の生活
天保2年(1831)直弼17歳-
15年間。

朝は6時-7時に起床。睡眠は4時間でじゅうぶん。
学問・修養。

●禅学
彦根佐和山の清凉寺。
井伊家の菩提寺。二代直孝の建立。
直弼は子供時代、ここで手習い・禅学。
埋木舎に移ってからもしばしば参禅。

【禅の影響】

師・師虔禅師が遷化したときに人に当てて、
「誠に闇夜のとぼし火をうしなひ、盲人の杖なきこヽち」「しかしかヽる事は今の世にはむき申さず、中々申出べきにもあらず候」(天保十二年五月三日付書状)。

悟りの境地をあらわして師に、
「大徹底ノ人ハモト生死ヲ脱ス、何ニ依ツテカ命根(みょうこん)不断ナル。
わたつ海の底にはふちも瀬もなくて水のみなかみ常にたえせず」(『至誠之人井伊大老』)。


●武の道
剣術・槍術・砲術。とくに居合。新心流という彦根藩に特有の精神修養を主にしたもの。藩士河西精八郎にならう。

その後も居合の研究し秘伝書を藩の師弟に向けて作成(『七五三居合秘伝書』)。

保剣
「勝をたもつを真の勝と伝。保つは相続の意なり。人を討のミをバ勝といふべけんや。たとへバ一朝の怒ニ是を動して、一人の敵ニ勝事を得たりとも、家名を亡すごときハ、勝の勝たるものニあらず。亦堪忍堅固にして不動時ハ、子々孫々繁永(栄)し、武名を不穢ハ、これ至極の勝也。されバ剣を全く保つ事、兵者上下ニよらず一大事也」(『井伊大老と開港』『至誠之人井伊大老』)

●山鹿流兵学
江戸藩邸にいたころ、西村台四郎について。
二十四歳で師から伝授書を授かる。

●茶の湯
禅の精神にも通ずるものがあり。
埋木舎に茶室を作る。

柱に
「何をかはふみもとむべきおのづから道にかなへる道ぞ此みち」
「朝夕に馴れてたのしく聞ものは窓のうちなる松風の声」

当時は十一代家斉の大御所時代。世に贅沢の風があった。
直弼は「世間茶」といって好まなかった。
心がだいじ。
既存の茶道に飽きたらない。

一派を立て『入門記』をあらわした。

36歳、藩主になってから『茶湯一会集』をあらわす。
「此書は、茶湯一会の始終、主客の心得を委敷《くわしく》あらはすなり。故に題号を一会集といふ。猶一会に深き主意あり。抑々《そもそも》茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたゝびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。去るにより、主人は万事に心を配り、聊も麁末《そまつ》なきやう、深切実意を尽し、客にも此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべきなり。是を一期一会といふ。必々主客とも等閑には一服をも催すまじき筈のこと、即一会集の極意なり」

茶の湯の精神をよんだ直弼の和歌

そよと吹く風になびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳

●長野義言
国学の研究
師・長野義言(よしとき)。

彦根藩の藩校「弘道館」。
直弼、はやくから藩校の和学方の指南をうける。
漢文より和文。漢詩より和歌をたしなむ。

長野義言。
本居派の国学者。
直弼と同い年。出身はしれない。
経歴不明。なぜ隠す必要があったのか?
謎が多い人物。
公家のご落胤とも、伊勢の神官の子とも。
肥後八代出身説、肥後阿蘇の大宮司阿蘇家の一門とも。

白皙《はくせき》、面長、鼻高く、額広く、下頬そげ、眉太く、眼は鋭く、眼光炯々として人を射るごとく、髪は黒く、一見婦人を思わせる。武人というより公家風。背丈はすらりと高く、撫肩で肉痩せ、…

言語はきわめて静かで、京都と伊勢をまじえたような音声であるが、せきこんで早口に喋る時は知らずしらずに肥後弁を交えていた。→肥後出身説。

「大宮司」とよばれた。

「遠祖健磐竜命十三代の孫頼高は長野家の祖」(阿蘇家系図)。

二十五歳のとき伊勢を訪れた国学の書籍をもとめた記録。
その後、尾張・三河・美濃各地で国学を講釈。

古今・万葉。

やがて近江へ。
近江国坂田郡志賀谷の相楽院に「高尚館」を開く。
門人をふやす。

天保十四年、京都で二条家に出入り。
国学・和歌の知識を買われた。
『古事記』の講義をしたり。
京都の公家社会にパイプをつくる。
紀州藩とのつながり。後に将軍継嗣問題で南紀派をになう。

●長野義言との出会い
天保十三年(1842)11月、
長野義言、はじめて埋木舎を訪れる。
夜を徹して直弼と語る。
国学の道、和歌の道。三晩にわたり。
師弟の契りをむすぶ。

三晩目
憂身こそわかれはゆかめ心さへ君につかへぬ時あらめやも 義言

直弼、義言と会った感激を語って、
「しきしまの道にふかく心をよせ、哥にまれ、ことだまにまれ、くはしくそが上心ざしのまめやかなる事、いはん方なく、又世にありがたくこそ覚ゆれ。さればおのれも年比、此道の師とたのむべき人もなく、いたづらにおのがじし哥はよめれど、たゞおぼつかなき事のみ多かるに、身がさひはひにも有るかな。かたみにしたひしたはれて、世の常ならず、ふかき夜にたいめしたればこそ、敷島の道をもふみひらかん事を得たり。今よりは義言うしは吾が師なり。おのれは義言うしがをしへ子なり」(天保十三年十一月下旬消息、『井伊家史料』一)

純粋に和歌・国学の師とあおいだ。政治的意味合いはない。ともに二十八歳。
のちに京都で「義言大老」とよばれるが…

●国学の研究、すすむ
義言を師としてから、和歌だけでなく国学の学習もすすんだ。
義時の著書『かつみぶり』を初心者向けに書き直す。

日本古学にも目を開かれる。
宣長の『古事記伝』や『玉勝間』を熟読。

研究は直弼が江戸に出てからも続けられた。

不明点は書物にメモをはり、あとで師に質問。
納得いくまで追求。

歌にも熱心。師に添削をたのむ。
古楽・国学の学びを磨く。歌道も本格的に。

【師弟の交わり】

師弟の直接顔合わせはまれ。
直弼は義言の息吹山麓の庵をついに訪ねず、
義言の埋木舎訪問もわずか数回。
もっぱら文通による。

源実朝と藤原定家の例。

義言、『沢の根ぜり』をあらわし直弼に与える。
尊王論。
国家の根本は朝廷。朝廷から政権を委任されている幕府は正義ととく。「幕府中心の朝廷観」

次回「井伊家世継ぎとなる」につづきます。

【無料】日本の歴史 解説音声91本・18時間!
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/

「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など日本史の91の名場面を解説した解説音声です。期間限定で無料ダウンロードしていただけます。