足利義満(九)義満の最期 1 左大臣光永 2025年1月15日 20:23 ●妻康子を准母となす応永13年(1406)12月、後小松天皇の母・通用門院が56歳で崩ず。義満「天皇在位中に二度諒闇があるのは不吉である」後小松天皇は在位中、父後円融上皇を亡くしている。諒闇は二度目となる。義満「誰かを、後小松天皇の准母、母に準ずる立場に立てよう」。義満の妻・日野康子、後小松天皇の准母となり、翌年、北山院の尊号を贈られる。義満自身は、天皇の父に準ずる。上皇に相当する立場。「帝位簒奪」は不明。●義嗣への寵愛義満、義持との関係悪化。↓春日局との間に生まれた子を出家させ天台宗の門跡寺院・梶井門跡に入れていたが、還俗させて、義嗣と名付けていた。義嗣、美少年に成長していた。↓義満、義嗣を溺愛。義満、稚児好き。応永15年(1408)3月、後小松天皇の北山第行幸。法服姿の義満と、童装束の義嗣が後小松天皇と家来の一行を迎える。義満51歳。後小松天皇26歳。「天皇が上皇を訪ねる時のよう」だった。義嗣15歳。行幸は20日間。猿楽や船遊び、和歌・連歌、蹴鞠…。嫡男の義持は室町第におり、一日も招かれなかった。翌4月、義嗣の元服式。親王元服の形式にのっとる。「まるで、皇太子扱いではないか…」「もしやわが子を天皇にしようと…?」義満は帝位簒奪を狙っている?あくまで推測。現状は「不明」。●足利義満の最期応永15年(1408)4月、義満、義嗣の元服式を行った頃から体調が悪くなり、5月4日、危篤。一時持ち返すも、6日ふたたび悪化して酉の刻(午後6時)頃、没す。享年51。等持院で荼毘に付された。中陰の仏事(四十九日)を過ぎて、相国寺の塔頭・鹿苑院に移され葬られた。分骨は高野山安養院にも。鹿苑院は足利将軍の位牌を祀る牌所となる。明治時代に廃仏毀釈のあおりで廃寺となる。義満の墓所の正確な位置は不明。●尊号朝廷、義満の尊号についてもめる。「前将軍義満は、今上帝(後小松天皇)が幼少のみぎりよりよく助け奉り、南朝より三種の神器を奪還した。その功績は大きい」「とはいえ、義満公はすでに従一位太政大臣。人臣として最高の官位を極めている。さらに尊号を贈るとなると…」猛反発。「皇族でもない義満が法皇?先例が無い!」「先例ならある。弓削道鏡だ」「弓削道鏡は…天智天皇の孫であるから凡人ではない。義満の場合とは違う」結局、義満に「太上法皇」の尊号を贈ることに。義満の野望は、死後ようやくかなった。帝位簒奪の件は不明。●義満から義持へ義持、義嗣の北山第からの追放、日明貿易の停止を宣言。足利義嗣、北山第を追放され、生母春日局の邸宅に移される。義持は室町第を出て北山第に移るが、父の住んだ北山第は義持には居心地が悪い。北山第の一部を壊し、祖父義詮が住んだ三条万里小路に移し、新しい庁舎を建てた。三条坊門第。通称下御所(しものごしょ)。北山第は上御所(かみのごしょ)と呼ばれた。代々の将軍は、御所の場所にかかわらず室町殿と呼ばれることに。【無料】日本の歴史 解説音声91本・18時間!https://history.kaisetsuvoice.com/DL/「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など日本史の91の名場面を解説した解説音声です。期間限定で無料ダウンロードしていただけます。 #日本の歴史 #金閣寺 #足利義満 #等持院 #足利義持 #足利義嗣 1