足利義満(九)義満の最期

●妻康子を准母となす
応永13年(1406)12月、後小松天皇の母・通用門院が56歳で崩ず。

義満
「天皇在位中に二度諒闇があるのは不吉である」

後小松天皇は在位中、父後円融上皇を亡くしている。諒闇は二度目となる。

義満「誰かを、後小松天皇の准母、母に準ずる立場に立てよう」。

義満の妻・日野康子、後小松天皇の准母となり、
翌年、北山院の尊号を贈られる。

義満自身は、天皇の父に準ずる。
上皇に相当する立場。

「帝位簒奪」は不明。

●義嗣への寵愛
義満、義持との関係悪化。

春日局との間に生まれた子を出家させ天台宗の門跡寺院・梶井門跡に入れていたが、還俗させて、義嗣と名付けていた。

義嗣、美少年に成長していた。

義満、義嗣を溺愛。

義満、稚児好き。

応永15年(1408)3月、後小松天皇の北山第行幸。

法服姿の義満と、童装束の義嗣が後小松天皇と家来の一行を迎える。

義満51歳。後小松天皇26歳。「天皇が上皇を訪ねる時のよう」だった。義嗣15歳。

行幸は20日間。

猿楽や船遊び、和歌・連歌、蹴鞠…。

嫡男の義持は室町第におり、一日も招かれなかった。

翌4月、義嗣の元服式。親王元服の形式にのっとる。

「まるで、皇太子扱いではないか…」
「もしやわが子を天皇にしようと…?」

義満は帝位簒奪を狙っている?

あくまで推測。現状は「不明」。

●足利義満の最期
応永15年(1408)4月、義満、義嗣の元服式を行った頃から体調が悪くなり、5月4日、危篤。

一時持ち返すも、6日ふたたび悪化して酉の刻(午後6時)頃、没す。享年51。

等持院で荼毘に付された。中陰の仏事(四十九日)を過ぎて、相国寺の塔頭・鹿苑院に移され葬られた。分骨は高野山安養院にも。

鹿苑院は足利将軍の位牌を祀る牌所となる。

明治時代に廃仏毀釈のあおりで廃寺となる。

義満の墓所の正確な位置は不明。

●尊号
朝廷、義満の尊号についてもめる。

「前将軍義満は、今上帝(後小松天皇)が幼少のみぎりよりよく助け奉り、南朝より三種の神器を奪還した。その功績は大きい」

「とはいえ、義満公はすでに従一位太政大臣。人臣として最高の官位を極めている。さらに尊号を贈るとなると…」

猛反発。

「皇族でもない義満が法皇?先例が無い!」

「先例ならある。弓削道鏡だ」

「弓削道鏡は…天智天皇の孫であるから凡人ではない。義満の場合とは違う」

結局、義満に「太上法皇」の尊号を贈ることに。

義満の野望は、死後ようやくかなった。

帝位簒奪の件は不明。

●義満から義持へ
義持、義嗣の北山第からの追放、
日明貿易の停止を宣言。

足利義嗣、北山第を追放され、生母春日局の邸宅に移される。

義持は室町第を出て北山第に移るが、父の住んだ北山第は義持には居心地が悪い。

北山第の一部を壊し、祖父義詮が住んだ三条万里小路に移し、新しい庁舎を建てた。三条坊門第。通称下御所(しものごしょ)。

北山第は上御所(かみのごしょ)と呼ばれた。

代々の将軍は、御所の場所にかかわらず室町殿と呼ばれることに。

【無料】日本の歴史 解説音声91本・18時間!
https://history.kaisetsuvoice.com/DL/

「仏教の伝来」「清少納言と紫式部」など日本史の91の名場面を解説した解説音声です。期間限定で無料ダウンロードしていただけます。