井伊直弼(一)出生
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●出生
文化12年(1815)10月29日、
彦根城槻御殿に生まれる。
幼名鉄之介、のちに鉄三郎。
父は十一代彦根藩主井伊直中。名君。50歳。
母は側室の富(お富の方)。
江戸麹町隼町伊勢屋十兵衛の娘。
幼少から井伊家中屋敷に仕え、直中の側室に。
賢婦人のほまれ高い。
十四男。
直中はすでに直弼の兄直亮(なおあき)に家督をゆずり隠居。
槻御殿。彦根城の外郭にもうけられた建物。
四代直興(なおおき)が造営。数奇をこらした建物。
明治になって廃藩後は「楽々園」。
楽々園の隣には、玄宮園。中国湖南省の「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」を模す。
直弼は何不自由なく幼少期をすごす。
父直中は直弼に武術をならわせる。
射的場。
十五六歳から毎日弘道館へ。
武術を習うかたわら、茶の湯や和歌も。
●父の死
天保二年(1831)五月二十五日、直弼十七歳のとき、
父直中が六十六歳で亡くなる。
母は直弼五歳のときすでに亡くなっていた。
●井伊家の伝統
二代直孝からの伝統。
家督を継ぐ者以外は他家を継ぐか家臣に養われる。
そうでない者はわずかな扶持で生活。
直亮以外の兄たちは皆、他家を継いだ。
●埋木舎
天保2年(1831)直弼17歳。井伊家の伝統により槻御殿を出される。
三百表の捨扶持。
わずかな家臣・下男下女で生活は苦しい。
腹違いの弟直恭(なおやす。12)ととも尾末町(おすえまち)松の下の北の御屋敷へ。
「埋木舎」
他家を継ぐ望み。
天保五年(1834)兄直亮「大名の養子にするから江戸にこい」
直弼、直恭、江戸へ。
(二度と彦根の地はふむまい…)
直恭、日向延岡侯内藤政順(まさのり)の養子となる。政義と改名。
10月、家督を継いで七万石の城主。
12月、従五位下能登守。
直弼はもれる。江戸藩邸に一年すごし、翌年8月、彦根に帰る。
世の中をよそに見つつもうもれ木の埋れてをらむ心なき身は
北の御屋敷を「埋木舎」と名付けた心境。
さつ事も
憂きも聞かじや
埋木の
うもれて深き
思ひこそあれ
和敬静寂のこころをよめる 澍露軒
そよと吹くかぜになびきてすなほなる
姿をうつす岸の青柳
「これ世を厭ふにもあらず。はた世を貪るごときかよわき心しおかざれば、望み願ふこともあらず。ただうもれ木の籠り居て、なすべき業をなさましとおもひて設けしを、名にこそといらへしまゝを埋木舎のこと葉とぞ」(『埋木舎の記』)。
どんな心境だったか?
…一生埋れ木も悪くない?
もしインターネットがあったら?
十七歳から三十二歳まで十五年、部屋住みつづく。
兄直亮(なおすけ)の養嗣子となる。
兄とは歴然とした身分の差。
「近年槻御殿へ御上り遊ばされ候御途中、風雨強(き)節も御乗輿も遊ばされず、御傘を覆はさられ、わづかの御供人を召連られ候ての御通行、一両度も拝見し奉り」(『井伊大老と開港』『至誠之人井伊大老』)。
一年三百俵の宛扶持は不十分。
年々の物価高騰によって実質、下がる。
↓
生活苦。
学問・修養にはげむ。
源頼朝との比較。
次回「埋木舎の日々」につづきます。
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