豊橋の薄れゆく喫茶店の記憶を遺す。
2011年に祖父が亡くなった。翌2012年に祖父宅を取り壊すことになり、残されていたままになっていた遺品の整理をした。祖父は新聞のスクラップが趣味だったり、お店の紙袋や包装紙を大切に保管する人であった。もちろん祖父がそれらを保管してることは知っていたが、家を取り壊す段階で段ボールに入ったそれらの膨大な量に親族である僕らは驚いた。
1971年に建てられた祖父宅は41年後にその役割を終えた。
残された紙ものコレクションの中に段ボール3箱分くらいのマッチ箱があった。恐らく喫茶店巡りも趣味だったのだろう。50年代〜80年代くらいまでにかけての愛知県豊橋市(祖父が住んでいた町)や出張や旅行、あるいは仕事の転勤で訪れた町のマッチたちだ。親族も誰も欲しがらないので、とりあえず僕が引き取った。とはいえとにかく膨大な量であったので、重複しているものやタバコの銘柄のマッチなどは処分した。
その頃の僕は体調が思わしくなく、仕事も少し休んでいる時期だったので整理する気にもなれず、結局整理を始めたのは2018年も12月に入ってからのことだ。随分とまたそのままにしたものだと我ながら呆れてしまう。
豊橋レトロマッチコレクションと称して、インスタグラムにアカウントをつくりアーカイブ化していく事を決めた。残されたマッチ箱を整理しつつ気付いたことは、60年代の豊橋において優れたグラフィックデザインのマッチが思いのほか多かったことだ。日本においてグラフィックデザインが確立されたのは東京オリンピック後だと認識している。それまでももちろんすぐれた図案家と呼ばれた今で言うデザイナーは多かったのだけれども、豊橋という地方都市においてそういう人たちが居たというのが想像できなかったのだ。
喫茶 クロンボ
喫茶 プリンス
喫茶 河
コーヒー アカプルコ
いずれも60年代半ば〜70年代初めのものだけれども、何ともよいグラフィックである。豊橋には戦前にも松月堂喫茶室や若松園喫茶室など当時としては洒落たカフェがあったと記録されている。しかし60年〜70年代の喫茶店というのは戦前に比べ多いはずなのに写真や書籍などに記述で残されているものが少ない事に気付く。おそらくは当時は喫茶店はもはや珍しくないほど多く豊橋の町の中で営業し、住民の日常だったのだろうと想像する。日常的なものを記録に残すことを人々はあまりしない。そうやって記録に残っていないものは記憶の薄れとともに消えていってしまう。東京や名古屋などの大都市に置いては喫茶店文化を研究する人も多く、閉店した名店も書物に名前を残している事が多い。豊橋はどうだろう。手元にあるマッチ箱にわずかに残る町の記憶をせめてweb上にアーカイブしなければと変な使命感がわいた。
とりあえずマッチ箱のアーカイブは残そうと。豊橋の喫茶文化を研究、執筆する人が現れるのであれば、その方にこのマッチ箱たちは資料として譲りたいと思う。写真や記録に残っていない町の記憶。これをできる限り分かる範囲で次の世代に遺せたらいいな。
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