「ゲイの僕がBLに救われた話」からの気づき。クリエイティブの意識変化
富岡すばるさんの「ゲイの僕がBLに救われた話」を読みました。
彼が創作物に救われた、と書いてあって、読んでいる私も救われた気持ちになりました。よかったなあ。
それで、その中で一部、まだぼんやりと言語化できないことを明瞭にしてみたくてメモをします。
ぼんやり…というのは私の目線で、
「BLは女性が性的に消費されていない」
のくだり。ここがなんだかしっくりこなかった。
あと、「BLを腐っていると呼ぶ事には異議がある。やめて欲しい。」と言う趣旨だったと思うのですが、そもそもなぜ腐っているんだろ。って思ったんですね。そこを辿ると…
って書いてたらなんだかちょっと長くなったのですが、もしよかったら読んでいただけたら嬉しいです。「立場によって、ものの見え方や印象の受け取り方が変わり、表現も変わる」いう前提です。つまり個人の感想ですけども。
それと、性へ言及する表現があるので、苦手な人はここで閉じていただけたら。
「やおい」の語源
そもそも、BLというジャンルの先祖は「やおい」です。
自分の推しているアニメパロディ同人誌で男性キャラ同士が性的な行為をする同人誌のことを、もともと「やおい本」といった、
という定義であってますでしょうか。
(1970年後半頃、ファーストガンダムくらいから歴史があるとのこと。私の周囲にも10代の頃からプロの作家目指して漫画を描いていた友達もいてわりと身近でした)
「やおい」は、ヤマなし、オチなし、意味なし、の頭文字からの造語。山もオチも意味もない、でも性的行為はあります…という、そもそもは作り手読み手の内輪での自虐オタクスラング。
そんなものを愛読するなんて「腐って」いますね、という意味づけが含まれていました。
現在のネットスラングみたいなものです。
ストーリーは大概、作者の推し男性キャラクターが美しく描写され、愛情表現や性行為をするために描かれていて、起承転結もない場合すらある、というかそれがほとんどではないだろうか。
(そんな事を言うと、駆け出しや素人の描く同人誌の大方が「やおい」じゃないのかなとか思っちゃうけど)
ハッピーエンドもあればバッドエンドもある。
女性による男性同性愛をテーマにした創作物の変遷
そもそも少女が読む、男の子同士の愛情を描く漫画といえば、今のBLから漫画ヒストリーを辿っていくと竹宮恵子先生や萩尾望都先生、24年組頃の漫画家さんたちの作品にぶつかるイメージがあるのだけれど、その頃の作品の年代など少し調べてみたところフランス映画の少年同士の愛情をテーマにした作品(『悲しみの天使』)からのインスピレーションだったり、またビスコンティの「ヴェニスに死す」も年代が近くて、
先生方が近しい関係値の中でそれら各方面の作品を制作の糧と学ばれていたことからも、エロスや退廃を纏いつつ読者の心を魅了するこれらの漫画表現の中には「文芸」の知的な要素は多分にあったんじゃないかな、と想像されるのです。
当時の読者少女らの、現実ではない世界の中で行われている完全な美の夢想世界、
私のイメージとしては白雪姫やシンデレラと同じような、夢の中のキラキラした美しい世界の中で繰り広げられた、知性を伴う少年愛の「耽美」ジャンルは、アートという大義名分が古い西洋の宗教画でヌードを描く大義名分であったように、「俗悪」の対義語として少女の性的な興味への免罪符だったのではないのだろうか。
俗悪に対する少女ならではの生理的な嫌悪感とかもあるかもしれないけれど、その辺は今回ちょっとはずれるから置いといて
未知の異性への興味と美しい夢の世界がひとつになったら、コンテンツとしての魅力爆上げなのは、なんかわかる。
そして、逆に言えば、
そういった免罪符がなければ、女性はエロスに触れたいと意思表示をすることは、暗黙的・社会的にタブーだった時代なんじゃないだろうか…というのが私の想像です。
性差によるコンテンツのアリとナシ
男の子の読む漫画には、ちょっと青年向けになってくると巻頭にアイドルのグラビア写真や水着の写真なんかがみんな載っている。
男性が性に興味がある事を、社会は肯定的だ。
少女漫画はどうかというと、何冊もある月刊誌の中で、少女コミックだったかな?一つだけちょっとエッチなお話が載っているのだけど、
私が10代の頃、そのマンガを読んでいる…と言うだけで、クラスがざわついたものでした。
それくらい、女の子用の性的なコンテンツって日常にはあまりありえないものだったと思う。私の肌感としてですけど。恋愛はいいけど、その先に必ずある性愛への興味には、女の子という性別の場合なぜか蓋をされている。(今日本で問題になっている、児童への性教育にも通じる印象がありますね。)
そして男性はというと、
まさかの電車の中で女性の裸の写真の載った風俗の記事を読んだり、週刊誌のヌード写真を公衆の場所で読んだりしてる、
そういう男性が普通にあちこちで見られる時代でした。今思うとすごいね。
女性向けでそういった大衆的な性的欲求の部分だけを切り抜いたもの、俗っぽい性、コミカルな描写、それこそ男性の読む週刊誌や新聞の風俗欄のようなものに近い感覚の創作物、
それこそがまさに「やおい」本と名指しされる本だったのではないかなあ…
と思うのです。
もちろん、その中に文学的、詩的な美しい作品もたくさん生まれて、性描写のない作品もある。
同人誌という縛りのない自由な世界だからこそ様々名作があるに違いないと思うけれども、
大半のざっくり言う「やおい本」は、耽美の世界だとか芸術だとか、いいように使える免罪符がなく、その上完全なエロです!と、世の中へストレートに女性から内容を説明することも憚られたのではないかと思うのです。
先程述べた時代背景のとおり。
当時の社会を前提にして、作り手・読み手の女性たちは、自分のしていることが今の社会からは逸脱行動だと自覚していたんじゃないかなあ。
日本の悪習で、謙虚と取り違えた身内を下げる表現がありますね。愚息とか愚妻とか。
それはコミュニケーションを円滑にするための日本ならではの知恵だったのかもなとは思うけど、とりあえず、自分たちをそうやって下げとけば波風立たないという処世。
自らを下げることで、他からやいやい言われることを防衛したかった。
だから、「やおい=腐っている」という設定にイイネ!の共感が湧いて、流れは全体に共有されていった、というように思うのです。
それとともに、表現したものを、「腐ってるんだから仕方ないじゃん」という開き直りというか。
そんなソフトフォーカスみたいな自虐を用いて「やおい」と言うネーミングになったんではないかしら…
なので、実は「やおい」とは、抑圧されていた女性の意思や欲求を表現する文化の代名詞だったんじゃないかなあ。。。
極端な言い方をすると、社会が「やおい」にしてしまった。そんなように思ったんです。
やおいが生まれたその当時は、
性に関してだけではなく、女性が主体性を持って意見を大っぴらに表明することが憚られる風潮はまだまだ色濃かったと思うし。
「女がそんなこと言って」「女のくせに」みたいなセリフも罷り通る時代で(恐ろしい)
女性が性的に興味を示すことが、世の中では「無い事」になってたというか
世間が許していなかったというか
そういう、社会の認めなかった「女性のための性のコンテンツ」の抜け穴機能があったんじゃないかな。(全てがそうではないと思うけど)
そのようなことから、「男性同士の性描写だからといって、女性が性的に搾取されてない」と言うのは、ちょっと私からすると逆に不遜であるように思えたのだ。
女性だって男性だって性欲を表現してOK
(ただやはり弱い体、リスクを負うのは女性が多い事は間違いないので、完全に平等と言うわけにはいかない、まだかなり表現の中にも配慮が伴っているように見えるけれど)
それを世の中が認める社会であって欲しいと思うし、そうなってきてるんじゃないだろうかと思いたい。
やおいからBLという表現に変わってきたのは、
商業として言葉の軽快さによる扱いやすさもあるのだろうけれど、
性への欲求は人間なら持ってても当然の欲求であるとの認知や、女性が意見を声を大にして言える、社会が意見を聞くようになってきたことへの証のようにも思える。創作物を自虐せずに、表現したいと思うものをまっすぐに表せる世の中になってきたんだってことかもしれないよ、と言いたかった。
流れでTLというジャンルも生まれたし。
腐らないクリエイティブ
創作表現は良くも悪くも心と繋がっていて、創作表現を浴びることは心の欠けた部分を補ってくれる栄養補給ですね。
心を動かすパワー、良いパワーを実生活へ取り込んでいく。
それこそクリエイティブがこの世に存在する社会的な理由だと思っています。
冒頭にも書いた通りこの富岡すばるさんがBLで救われた、創作からすばらしいパワーをもらえたのは本当に良かったなあと思うし、
BLが偏見や蔑視の中でのセーフティゾーンとして機能していることに共感するのとともにその偏見や蔑視こそがクリエイティブによって変わっていく事を期待したいです。
わたしは、人間の思想が自由であると約束されている以上、そして自由であらざるを得ない以上は、表現の自由を謳われているこの国の中で
クリエイティブは自由であってほしいと思っています。
例えば性なら女性男性などとカテゴライズせず、どのような表現も創作である以上は自由、というのが私の感覚です。
ただし、それを見るか見ないかの取捨選択をする権利を私たちは持っているし、
自分で創作と現実を判断できない人たちにはそれを見せないようにするルールを作らなくてはならないでしょう。
自分のコンディションだってクリエイティブを受け取る時には多いに関係があります。
話の始めで「女性が性的に搾取されてない」って部分が腑に落ちないと言ったのは、
同じ天秤の逆から見れば男性が性的な搾取の対象となるってことだからさ。性的なコンテンツとして見るならば。
受け手のコンディションによって判断される部分ってそういうことで、それは蔑視や差別偏見の目に遭ったからこその感覚だとは思いますが、でも、よく言えば、表現✖️受け手の数で幾通りもの解釈が現れるのが創作物の魅力とも言える。
なので、そういう見られ方をされるからといって、創作の自由を咎める事はできないとも思っています。
自由には責任も伴うので、作り手も、受け手も倫理観を持って行動できる社会にしたいし、
勿論実際の人物や、誰かの価値、尊厳が貶められるような表現は絶対にしてはいけない。
属性による差別や偏見が、その属性を持った人の主観として表現することで、新たな視点を共有できる、男性にとっても女性にとっても「腐ったもの」じゃなくなったってそういうのは最高だなあ。
ということだったようでした。
(とはいえ、腐は腐でまたそういう文化できてるもんね。能動的に被害者になる面白みたいなのは無くならないのかもしれないな。)
富岡すばるさん「ゲイの僕がBLに救われた話」
https://tomiokasubaru.theletter.jp/posts/93002ac0-d976-11eb-9e5c-616ce0078bbd
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