『ルックバック』に描かれたテロと、ネットスラング
「漫画が上手い」とつい感想してしまう病
『ルックバック』。7/19(月)に「少年ジャンプ+」サイトに公開され瞬く間に話題になったこの漫画。普段は週刊漫画誌もWeb漫画も読まないのですが、こういう時はアンテナが反応する。タイムラインの数人がつぶやき始めたときにはもう143ページを読み終えていました。
二人のクリエイターの邂逅と訣別と喪失、そして人生においてどの瞬間も一歩踏み出すことでのみ未来への希望が生まれる、そういう物語。
今風に言えば「漫画が上手い」です。
ネットスラングに慣れていない人に説明すると「○○が上手い」というのは、漫画であれば、絵・コマ割り・セリフ・ストーリー・構成、全てが秀逸であり、「総合的に上手いと無配慮に言ってしまうには感想にしたって手抜きであるという誹り」を受けかねない状況で、それを甘んじて受け入れてでも「上手い」と言ってしまいたくなる、ということを包括しての評価の言葉です。
そして上手/下手というのは作者の技量を示す言葉ですが、「○○が上手い」の用法では作品そのものも形容します。単純な言葉ではあるのですがTwitterなどのSNSでは前後の文脈を作ってからでないと、使うのは難しい表現といえます。
その作品の完成度の高さもあって、『ルックバック』は掲載初日で200万以上、この記事を書いている時点で500万以上のアクセスとのことです。
優れている以上に、後半で「あり得たもう一つの人生」とその切り替えがSF的に描かれていることや、キー要素である四コマ漫画を巡って、さらに深い読み込みと考察が、ロールシャッハテストが如く「自分にはこう読み解けた」とネット上を覆いました。
そして一瞬で流行となった作品である故に、幾らか投げかけられることは覚悟しなければならない「事象の描写に問題があるのではないか」という指摘も。これについては後述します。
「お気持ち」「エモさ」を抉るということ
この作品には「時代を抉る 新時代青春読切143P!!」という謳い文句がつけられています。「時代を抉る」部分の「時代」が示しているのは、インターネットや高機能端末の普及による「一億総クリエイター時代」であるとぼくは考えます。この漫画もWebという新しめの媒体で発表されています。
ですが、登場人物の二人は訣別のときまで徹底してアナログな手法で創作をし、スマートフォンを持ちつつもSNSによるイージーな繋がりを持ちません。後半の「あり得た人生」を繋ぐ仕掛けも、何らのSF的デジタルガジェットを必要としていません。その点においては実は時代は抉られていません。
登場人物に背負わせているのは、時代として増加しているであろう現代の創作者たちへのメッセージではあるのですが、その中味は普遍的な創作の精神に根ざしたものです。
見方によっては、再びスラングとなりますが「エモさ」で表される情動に通底する人間同士の関係性、距離、深さを描き切っているので、その点では「エモさを消費したい時代」を抉っていると言うことができます。すでにこの解釈もロールシャッハテスト的ですね。
そして先ほどの「事象の描写に問題があるのではないか」の表出も、謳い文句どおり時代を抉った故のことかもしれません。
間違った理解をしている人がより一層間違わないために
話題になりすぎてしまって、触れずにはいられないのですが、詳しいところは下記リンク先をご一読いただきたいです。
上記記事で「統合失調症」という単語が出てきます。『ルックバック』で描かれた加害者は統合失調症にあたらず、覚せい剤依存症でもないと。読んでみてのぼくの整理は下記です。
社会が解消しなければならないのは(3)の「間違って理解されている統合失調症」であって、(1)や(2)からこの作品が必ずしも(3)にある間違いを誘引するとはいえない、というのがぼくの所感です。
これもネットスラングなのですが、統合失調症を示す隠語である「糖質(統合失調症を略して統失として読みの同じ別の単語を充てている)」は、カジュアルに(3)の間違った理解を助長していると日ごろから思っています。「意図や文脈を理解せずに会話が成り立たない相手」を、隠語の元になった言葉への正確性を書いたまま「糖質」と呼び捨てる風習。こういう背景は確実にあるかと思います。
先のブログの作者はツイートをしたところ「そういうとこだよ」というリプライを浴びせられたと記載しています。これまたネットスラングです。使用する側が込める意図としては「空気が読めなかったり、相手の心情を察しなかったり、エビデンスの無いことを誇らしげに語ったり、思い込みで突っ走って行動したりするから、おまえはいつまでも偏見まみれのクソオタクなんだよ」というようなニュアンスです。
なんというか、ふわっとしたネットスラングを用いて相手を類型であるとする文化、「癖」があると考えるべきでしょう。そして類型と書きましたが十把一絡げにしている乱暴さだけがあり、何ら相手のことを示してもいません。
ネットスラングとして軽くなればなるほど、原義から転化していようが、事象への間違った理解とは遠くなります。
約40年前のテロリスト像
前述したような「間違って理解されている」ことを、言葉に敏感になるともにアップデートしていきたいわけですが、時代が進んで医学や科学が発達し、正しい知識が得られる手段が豊富にあっても、なかなか人々の認識は改まらないということがあり得ます。
古いドラマ『特捜最前線』に『第107話 射殺魔・1000万の笑顔を砕け!』という回があります。放映が1979年ですから、約40年前です。
あらすじは、失恋をきっかけとして情緒不安定となった男が一年の訓練で射撃技能を身につけ、ライフル銃で「笑っている」市民を無差別に殺し、特捜課がこれの解決にあたるという話です。
一年間の自主訓練に堪えられるなら情緒はそこそこ安定していると思えますが、ご丁寧にも犯人の精神状況を精神分析医が推定するシーンも入っており、誇大妄想に駆られるようになったと劇中では説明されています。
最終的にこの凶悪犯を逮捕することはできたのですが、殺された市民は戻ってきません。それに、犯人が情緒不安定となる理由を作った元恋人はすでに他の男と結婚して海外で優雅なセレブ暮らし。全てが終わったあとで、特捜課が照会していた犯人確認のための電話を、呑気にも「コアラを見に行っていて電話に出られなかったの、何かありまして?」と国際電話で折り返してくるという後味の悪い結末。
捜査の途中で、人質を逃がすために囮となり撃たれた紅林警部補(演・横光克彦)、「(自分たちの仕事は裁判の)下ごしらえのためにホシを逮捕することです」と紅林に諭されて犯人を射殺することを思い止まった桜井警部補(演・藤岡弘)、そして最後の呑気な電話を受け取り、亡くなった被害者を思い浮かべて行き場のない気持ちを車のパトカーのボンネットにぶつける橘警部(演・本郷功次郎)……。
彼らの心情がセリフで語られていない分、ラストでスヤスヤと笑顔を浮べて眠り込む犯人の姿が映し出されるにあたり、視聴者は彼らと同じやるせなさを抱くことと思います。
創作であるドラマであるなら尚更、葛藤をよそに撃ち殺してしまうべきではなかったのかと。社会のあり方や人権などの考えを差し置いて、犯人にその場で命をもって償わせたいと、そういう願いを叶えるカタルシスがあってもよかったのではないか。
視聴者自身がそう感じてしまいかねない怖さ、危うさも含め、社会派と呼ばれたドラマならではの切り口で描かれていると言えます。
こういった、現代的な理解からすると「かなり間違った、何らかの精神的な問題を抱えた人物」を狂気として描いていた期間は(もちろん現代に無くなったわけではないですが)相当に長いといえます。
40年経っても人の理解はなかなか上書きできない。「再放送しない、欠番にする、回収する」などの手法がとれたかつてのテレビ・ビデオ作品の時代に比べ、現代のインターネットコンテンツはコピーや引用が手軽で、過去のメディアとは比べようのないくらい拡がり、残ります。
理解の上書きは、もしかしたら過去よりも難しくなっているかもしれません。拡散された間違った理解が、エコーチェンバーに代表されるように、同士の間でそれこそ「糖質」や「そういうとこだぞ」という言葉とともに反復学習がごとく繰り返され、ふわっとしたまま共有され、定着してしまうのだと思います。
作家がテロを描くとき
物語の構成上で最も重要な喪失が、現実の凶悪事件を底に敷いたのであろうことは、数多の『ルックバック』の感想でも指摘されていることです。
ですが、「あり得たもう一つの未来」で触れられた事件の描写に、作家が無配慮であったかというと、そうは思いません。配慮もありつつ、どのようにフィクションとして着地させたかを含めて「漫画が上手い」に含まれる作家性だと思います。
さて、ぼくの小説『きみに恋の夢をみせたら起きるよ』は、ぼくが全ての作品に通底させている「IT小説」であることのほかに、色々な側面があります。もちろん青春や恋愛であるようにも書いていますが、「凶悪なテロ事件を回避しようと登場人物が何度もその運命をやり直す」物語でもあります。
掲載していたWeb小説サイトが無くなってしまったので、最初のバージョンを読むことはもうできませんが、当初の構想は最終版とはまったく舞台も登場人物も違っていて、「学園内のオカルト研究部が爆破事件に遭い、残ったメンバーが真相を追ううちにタイムリープ能力を得てテロリストによる凶行を防ごうとする」というものでした。おそらく「よくあるやつ」です。
けれどその頃、京都アニメーションの放火事件が起こり、タイムリープという設定の面白さを優先するためだけに多くの人が謂われ無き殺害に巻き込まれるストーリーを書くことができなくなりました。
自粛ではなく、ただただ凄惨なその場面を思い浮かべることができなくなったのです。心に錠前がかけられ、筆が止まる。
似たことが前にもあったと思い出しました。デビュー作の『ブロックチェーン・ゲーム 平成最後のIT事件簿』です。これも、やはり暴漢が逆恨みから登場人物を刺すシーンがあります。ぼくは小説で「その時代を書き留める」ことを旨としているので、どう向き合うか、逃げるならどう逃げるかを常に考えています。
現実の事件が心に与える胸糞の悪さを、単なる感想だけに留めず、明日は自分が加害者にも被害者にもなり得る不安や脆さ、社会に事件が与える影響は何なのか、周囲で語られる憶測や身勝手な持論はどこから生まれるのか、創作の中の登場人物にも生活・人生があることへのケア、バイオレンスそのものが小説のギミックとして優秀で魅力的であるという誘惑、事件によって世界が喪失したものとは何か……。
現実の事件を創作に取り込もうというのに、報道や記述された数多の感情をインプットすればするほど、こんどは八方が塞がってゆきます。
情報で埋めて塞いで、浅ましさから遠ざけた「描きたい」欲求を、「描かなければならない」妄執に換えきって、やっと、(作家にとって)一縷の光である、そのシーンの1文字目を置くことができます。
まったく無神経でいこともできると思いますが、そこだけマクガフィン(=置き換えのきく劇中の小道具)とするなら、解像度が粗くなり、全体から浮いてしまうものであろうと思います。
『ブロックチェーン~』では逃げずに解像度を上げることで創作内の事件として描き、『きみに恋の~』では逃げて解像度を下げることで創作内のギミックとして利用しました。
世界に無関心ではいられないのですが、かといってそればかりに魂を持って行かれるわけにはいかない。そのバランスの取り方は、作家、作品によって違うと思うのです。
言葉を大切に
『ルックバック』は、優れた作品である故に、読んだ人の「お気持ち」を抉る要素がたくさんあり、それは立場や視座や生き方によってロールシャッハテストのように働きます。
ぼくが抉られたのは、創作者として何を尽くすべきかという点で、冒頭で「人生においてどの瞬間も一歩踏み出すことでのみ未来への希望が生まれる」と評しましたが、自分自身がシーンの1文字目を置くためには、事象に無関心ではいられず、言葉に無配慮でいることはできないということを、あらためて突きつけられたと感じました。
こういう作品が、瞬間最大風速で話題になって、自身の前に立ちあらわれる。何かのタイミングなのかもしれません。
※8/2追記
2021年8月2日、少年ジャンプ+編集部が下記のツイートをし、『ルックバック』が修正されました。修正された内容は前述の犯行部分のセリフとそれを報道した新聞記事見出し。
とりわけ新聞記事見出しの『「誰でもよかった」と犯人が供述して』への修正は、犯人の描写(リアル世界の社会向け変更)に伴って、作品内社会・作品内メディアがどう犯人を捉えたかも変わってしまったというのが、大きいです。
現実の事件を敷いた(と思わざるを得ない)描写が、読者の記憶や感情を呼び起こし、物語は圧倒的な厚みを獲得していたわけですが、そこが断たれて世界から独立してしまったとさえ思えます。
読者感情、社会での作品のあり方、あるいはエンターテインメントはどこまで人の喜怒哀楽を抉ってよいのか、そういったことを考えずにいられない修正でした。
ぼくは、作品の修正はせずに、編集部から作品解説を提示したほうがよかったのではないかと思っています。後出しの作品解説は、すでに読んだ人にとっては蛇足で無粋なものになるのは当然ではありますが、それをおいても、これから読む人や、批判された内容がどのようなものであったのかについて興味本位でやって来る人にとっては、よいガイドとなると思えるからです。
修正というのも一つの「作家のバランスの取り方、態度」ですが、将来この作品に初めて触れた人には、この二週間の批判や議論のことがわからなくなってしまいます。単行本化される際に、あとがき等でそのあたりが書かれているとよいな、と思います。