25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #3
学校生活
小学校から高校までが私の学生時代ですが、最初から最後まで、学校に居場所をつくることはできませんでした。
周りの多くの子たちと"差"を感じ続ける毎日でした。学力、運動、会話、友情、家庭、貧富、成長…そのことごとくに劣等感を感じ、つねに苦しい思いでした。
私の"一人が好き"という気持ちも、あまり周囲に認められませんでした。はみだし者にイヤミをいう教師や生徒はいても、"一緒にいる"というのがどういうことか。それを教えてくれる人は、家庭を含め、周囲に誰もいませんでした。孤独はかまいませんでしたが、私なりの普通を異質と扱われ続けるのはこたえました。どうして、一人、クラスの最底辺においやられるのか、未だに訳が分からないし、悔しくてたまりませんでした。一人で構わないという気持ちが強まり、私の方から誰かに歩み寄ることもありませんでした。
幼稚園まで、一晩寝れば昨日の事は忘れていたのが、次第に昨日を消化できなくなっていき、朝起きれなくなり、不登校の日数は増えていく一方でした。家庭環境は後にまとめますが、両親ともども放任主義で、何のフォローも無く。子供だった私も、自分のモヤモヤをどう伝えればよいか分からず、口を閉ざすほかなく、ただ学校との距離が開いていく一方でした。
そんな環境でもギリギリ留年は回避し、高校卒業を控えた私は、学校という場所への興味を完全に失い、消去法で高卒からの就職を目指すこととなりました。
この学校生活によって、私は"いまのままの自分ではいけない"という気持ちを強く植え付けられました。自分の現状に疑問を持つこと自体はよいことです。しかし"そのままの自分"を受け入れてくれる味方が居なければ、その先は暗い茨の道となるのでした。
わずかな居場所
私が、ギリギリ留年を回避し、就職の道へ進めたのは、ごくわずかに救いがあったからです。
ひとつめは、小学4年のときの担任のH先生。当時の私は、宿題をやらず、物も片付けず、机はいつもぐちゃぐちゃで、忘れ物だらけでした。そういった状況でも家族にはほったらかされていたため、改善する方法もわからぬまま。学校ではただ叱られるばかりでした。
そんな時に出会ったのが、H先生です。H先生は、宿題をやらない私を、その都度、居残りに誘ってくれました。先生とは物置きで勉強をしました。地べたに机替わりの段ボールを置いて、マンツーマンで宿題を見てくれました。物置きはとても静かで、集中しやすく。先生も叱らず、根気よく宿題につきあってくれました。
先生のサポートにより、私は初めて"片付ける達成感"というものを得ました。それをきっかけとして小学4年生から徐々に自己管理ができるようになり、持ち物や宿題などの約束事をきちんと片付けることができるようになりました。
ふたつめは、アルバイトです。高校生の間に、私は3つのバイト先を転々としました。1学年にバイト1つのペースです。きっかけは貧乏のお小遣い欲しさでしたが、"学校の外で大人を手伝うとお金がもらえる"これも達成感です。学校よりもバイト先へ真面目に通いました。働く大人たちと、コミュ障なりに交流する時間は、社会への興味に繋がりました。
みっつめは、ベタですが、当時普及しはじめたインターネットです。学校を休んだ日は、何時間もマウスでデジタル絵を描き、お絵描き掲示板に投稿していました。これも達成感なわけですが、とにかく、人に認められることに飢えていた気がします。その飢えが不登校の割に運よく満たされた結果、卒業からの就職を迎えることができたように思います。
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