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25才まで生きた心地がしなかったアラサー女の半生 #10 end


職場を転々②


 29才の頃。私は、すでに5年の付き合いになっていた工場Sでのアルバイトを、辞めようか迷っていました。理由は、工場を経営する老夫婦が、いつまで工場を続けられるのか心配になったからです。
 一応、老夫婦の息子さんが、跡継ぎを名乗り出て工場に出入りしていた時期があります。しかし「残業、休出は絶対にしない」という訳の分からないことを言ったあげく、適当に働いたのち、姿を見なくなりました。
 転職活動をするなら29才~30才はひとつの節目のようにも思え、悩み抜いて。工場Sを辞める決意をしました。それからしばらくして、工場Sは閉業してしまいます。
 ひとつの工場でうまくやれたから、よそでもやっていける。そんな甘い考えでいましたが、失業保険があったとはいえ、今アルバイトをしている工場にたどりつくまでに4年。短期間のものも含め8社を転々としてしまいました。ほとんどが、前述した"人が多い環境に通えない"特性により続けられず。セクハラに遭って逃げるように辞めてしまったこともあり、散々でした。
 30才を迎えるまでに3社を辞めてしまったあたりで、長年足が遠のいていた精神科への通院が頭をよぎりました。睡眠はずっと浅いままでしたし、動いていない無職期間は、より眠れませんでした。しかし、10代の頃かかっていた近所の精神科は、先生との相性が悪かったと考えており、悩みました。
 そんな折、自宅から車で20分の場所に、カウンセリングをやっている施設を見つけました。自由診療なので、料金は高くつきますが、薬の処方よりは、話を聞いてもらいたいという気持ちが勝ちました。問い合わせたところ、紹介状もいらないとのことで、私は再び、精神の治療を受けはじめることになりました。

広汎性発達障害


 30才に至るまでに色々なことがありすぎた為、カウンセリングにはこれまで起きたことなどを書いたメモを持参しました。出迎えてくれたカウンセラーさんはそのメモを見て、ある本を見せてくれました。女性の発達障害の特性をまとめたものです。その内容は、恐ろしいほど私の半生に重なっていました。とくにコミュニケーションのやり辛さについては、共感しかありませんでした。
 「あなたには発達障害の疑いがあります。精神障害者保健福祉手帳を取得したうえで、就職活動なさったほうがよい。私はもらえると思う」
 そのカウンセラーさんの肩書きは精神保健福祉士。医師ではないため、できる治療に限りがあるという理由で、精神科のある病院へかかることをすすめられました。紹介状は書いてくれると言います。
 発達障害という言葉が重く感じられ、昔通っていた、近所の小さな心療内科ではよくない気がしたため、病院は、家から車で20分ほどの、中規模の精神科専門の病院を選びました。これが、今も通院している"O病院"です。
 紹介状を手にO病院へ。これまで起きたことのメモと、障がい者手帳の取得という目的があったためか、話はあっという間に進み。あとは手続きだけ、という段階までいきました。
 医師に書いてもらった診断書には"広汎性発達障害"の記述。発達障害が何かと問われると、未だに説明が難しいのですが、その診断名に、なんとなく、肩の荷が下りたような気分になりました。

今日にいたるまで


 精神障害者保健福祉手帳の3級の取得ののち、障害年金の申請も行いました。年金の申請は自分で行いましたが、病院を転々としてしまったことで、それぞれの病院から診断書を集めなければならず、生まれつきの障害で申請するため、書類に生まれてから30才に至るまでどのようなことがあったかの説明を求められ、手続きが本当に大変でした。が、障害年金3級もおりることとなりました。
 手帳を持ってハローワークへ行くと、障害者窓口に通されるのですが、厳しい一般の窓口と180度対応が違って驚きました。
 市役所が行っている、障がい者就労支援事業にも顔を出しましたが、担当の方とイマイチそりが合わず。
 結局働き口は、唯一交流のある親族の、母方の伯母の紹介に頼ることにしました。そうして、31才にして行きついたのが、今アルバイトをしている工場です。ギリギリ働ける環境で、今もなんとか続けられています。会社がつぶれる心配もなさそうです。
 はじめはクローズで働いていましたが、なんとなく"言える環境"と判断し、後出しの形でオープンにしました。とくに咎められたりもせず。むしろ体調不良で休みやすくなりました。
 オマケていどに話しますが、私はつい最近まで、年下にすら敬語で喋っていました。コミュニケーションの経験値がそれだけ低く、不得手だったのです。
 しかし、ツイッターで偶然出会った、同い年の手帳仲間に「タメ口で話してみようよ!」と提案され。ぎこちなく通話するうちに、いつの間にかタメ口のほうが楽になっていました。病院のカウンセリングでも「最近、流暢に話すようになった」と評価されました。これまでの人間関係は散々でしたが、私のコミュニケーションへの意欲は、まだ潰えていないようです。
 さいごに、まとめるのが難しいほど色々あった半生で、書ききれていない部分もたくさんあるのですが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。暗い期間が長くありましたが、私のようなやつも、今は平和に暮らせています。この記事が、誰かしらの、何かしらの足しになれば幸いです。 sionan

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