柔軟になりすぎても卑怯だと思う。という話
以前にこんな記事を書いた。
上の記事の結論としては、「言葉は伝われば良い。柔軟性を持っていこう」ということで終わった。
私生活においてもこの柔軟性っていうのはとても大事だと思う。
意固地に自分の意見に固執したり、他人の気持ちに寄り添えない人は、この多様性の社会においてはあまり良しとはされていない気がする。
そういう意味でも柔軟性ってとても大事だと思う反面...
「あれ?」と思ったのだ。
柔軟性や多様性っていう言葉を、自分の都合良いように使ってしまってはいないかと。
「柔軟性」「多様性」は都合が良い言葉?
柔軟性・多様性は、本来なら良い意味、というか、良い印象のある言葉だと思う。
・話に柔軟性を持たせる
・柔軟性のある行動を心掛ける
・多様性を認める
・仕事では多様性を尊重している
こういった風に使う場合が多い「柔軟性」と「多様性」。
でもちょっとした言葉の違いだとか、気持ちのすれ違いで人は違和感を持つもの。
ぼくは都合が良く使われているこの言葉たちに警鐘を鳴らしたい。自分も都合よく、体よく使ってしまうため、気を付けたい。だから都合良く使われるとはどういうことなのか整理してみる。
※ ※ ※
例えば、君が彼氏彼女からケンカしたり、振られてしまったりしたとする。
その愚痴や痴話げんかなどを友達に話したところ...
「それって君にも責任があったんじゃない? 今は柔軟性とか多様性が求められる時代だからね。相手の意見も尊重してあげれば良かったんじゃない」
こう言われたらどうだろう。
(......いや、そうだけど、
......そうじゃない)
確かに正論と言えば正論だと思う。
でもここで話したかったことはあくまで「愚痴」で、もっと言えば「感情」だ。
それを正論で返されてしまっても、なんか違う。
欲しかったのは「共感」や「慰め」の、感情部分の話がしたかったはずだ。
それなのに、愚痴を正論で返されても、「そうなんだけど...」とまた違うベクトルからの「責め」で落ち込むことになる。
また「多様性を認める」という人は、自分とは全く価値観の合わない人と合った時のも同じことを言えるのだろうか?
例えば、米国では白人黒人の問題がある。ぼくらでは想像するのは難しい問題だ。仮に想像できたとしても、それは想像の域を出ない。
問題を知ろうとして知ることはできるけど、昔からの遺恨や物事の本質を捉えることはすごく難しい。仮に捉えたとしても、それはほんの氷山の一角に過ぎないだろう。
ぼくも含め日本の人は、宗教や何かを信仰するということに疎いのではないだろうか。
信仰と言う面で言えば、何かの「ファン」でもそうだ。
例えば、自分が『鬼滅の刃』を面白いと思っていても、つまらないという人もいるだろう。仮に君が『鬼滅の刃』のファンだとして、相手につまらないと言われるだけならまだしも、「○○だからつまらない」「バトルマンガのセオリーを無視している」「子供だましだ」という批判をしてくる人と、わざわざ一緒に『鬼滅の刃』の話をするだろうか。
「多様性だからね」という言葉を胸に、『鬼滅の刃』の批判に耳を傾けるだろうか。
多様性を意識することは間違ってはいないけれど、受容することとはまた違う。
それなのに他人に対しては「多様性の社会だから」「ダイバーシティだから」「異文化なんて当たり前でしょ」という人は、
全く違う価値観を持った人と知り合ったことがないだけなんじゃないだろうか。
また、その「多様性」という言葉を使うことで、「私は心が広いからね」といったような態度を取りたいだけなんじゃないだろうか。
価値観が合わない人との共感は無理なんだから、そこで「多様性」という言葉で縛る必要はない。
わざわざ関りを持つ必要もない。
SNSで誹謗中傷と取れる言葉に対して「多様性」を盾に話してくる人間がいるが、そんなものは多様性ではない。
価値観の相違だ。
多様性=心が広いではない。
それを他人にも強要するのも、多様性じゃない。
その価値観は、その人の価値観だ。
(もちろん、この意見もぼくの価値観だ。)
具体的に「都合が良い」とは?
柔軟性にいこうよ
多様性だからねー
一見(一聴)すると聞こえはいいが、使い方によっては都合が良い言葉になってしまう。
では、その言葉がどうして都合が良い言葉になってしまうのか。
※ ※ ※
例えば上の例をもう一度引っ張ってくると
彼氏彼女に振られて、愚痴を言ったら「それって君にも責任があったんじゃない? 今は柔軟性とか多様性が求められる時代だからね。相手の意見も尊重してあげれば良かったんじゃない」と、言われた。
これは「柔軟」や「多様性」という言葉で、その人のことを思っているように見せかけて、気持ちに寄り添うことを回避している。
気持ちに寄り添うのはある種のパワーがいる。
辛い経験を聞く、共感するには、同じように辛い思いをしないといけない。
そうした気持ちに寄り添うのが億劫なのだ。
ぼくも分かる。思い当たる部分も多々ある。
相手の愚痴に対して、「いやいや、それお前の所為じゃね?」と思って口にしてしまう時もある。
でもそうじゃない。
その時々に寄り添うべきなんだ。
気持ちには、気持ちで返さないといけない時もある。
「柔軟性」「多様性」などは一つの例だけど、正論で返されてしまうと、それは1つの「ダメージ」なのだ。
傷ついた人をより傷つける、現実を突きつけるのは、ぼくの価値観では違うなと思う。人はそんなに強くない。
※ ※ ※
また、意見を封殺するという意味もある。
「柔軟性」「多様性」という言葉を返すことで、「じゃあ私には柔軟性がないんだ」「多様性を認められないんだ」と思わせてしまう。
これは愚痴を言いたかった人の話を、意見を殺してしまっている。
また、さも正論である様は、「その人のためになる言葉」と思わせておいて、実は「自分の思い通りにしたい」、「自分の意見や気持ちを隠して否定・批判されないような言葉にしている」んだと思う。
正論を言うことは、「自己防衛」という意味では間違ってはいないけれど、「柔軟性」「多様性」を使うことで、その人自身はなにも意見を言わないことが多い。
「柔軟性だから」「多様性だもんね」という言葉で、「そういう意見もあるよね」と相槌して、突き放しているだけの場合もある。
そういった「決断しない」という選択は自分にとって都合が良いことなんだと思う。けど例えば、共感してもらいたかった人にとっては気持ちに寄り添うという決断をしてくれなかった人、と映ってしまうし、やはり突き放している(ように見える)。
あと人は正論で論破したり、まっとうな批判(と思えること)をすることで気持ちよくなるらしい。
つまり誰かと痛みを共有するより、自分の快感を優先してしまう。とここまで言うとさすがにトゲが多いけれど、でもそうじゃないとは言えない。
じゃあどうすればいいのか?
ぼくは「柔軟性」「多様性」という言葉が好きだ。
実際に「柔軟に行きたい」とかって思ったりするし、「今は多様性の社会だから色んな人がいて良い」だとか使ったりする。
良い言葉だと思う反面、使い勝手も良すぎて「都合の良い」言葉になってしまう時がある。
このような言葉を使う時は、相手の事を考えた方が良い反面、寄り添いすぎても自分のストレスがえぐい。
難しい。
だからこの文を読んで、もし都合が良いように柔軟性だとか、多様性といった言葉を使っている人がいたら、スルーする技術を身に付けよう。
そういう言葉もあると知っているだけで、意外とスルーできるものだ。
そしてそういった都合が良い言葉は誰しも使ってしまうものだと分かっておこう。みんな誰しも自分を守りたい生き物だ。ぼくだってそうだ。
だから都合が良い言葉とはうまく付き合っていかないといけない。
※ ※ ※
念を押すようだけど、ぼくは柔軟性や多様性といった言葉がむしろ好きだ。
これからも使うと思う。
だけど、自分にとって都合の良い柔軟さは、時に人を傷付けているかもしれない。本当の「柔軟性」とは、相手に寄り添うことなんじゃないだろうか。
もう一度、自分が使う言葉を考えてみたい。
君もこれをきっかけにちょっとだけ考えてみて欲しい。