特に書くことがない。ので、書くことについて書いてみた。
特に書くことがない。
いや、あるにはある。
だけど、今はそこまで書く気にならない。
なので書かないを書く。
書くこと
書くということを考えてみる。
書く作業というのは頭を使う。
なので疲れるし、疲れている時には書きたくならない。
だけど書きたいという欲もある。
だから書くのだ。
こんなアホみたいな記事ばかり書く。書きたいからだ。
見られない記事に価値はないのか?
見られない記事を書くことには意味はないという人も多くいると思うが、ぼくは違うと思っている。
確かに、見られない記事を作成しても、時間の無駄かもしれない。
・人に価値を与えない
・閲覧されないから承認欲求も満たされない
・お金も入らない
こんな感じで、見られない記事の量産は、社会のゴミになってしまうからだ。
だけど、そんなことをいったらこの世の娯楽は全てゴミだ。
そう、ぼくにとってこのゴミを生成する作業は「娯楽」なのだ。ゲームとか読書とか音楽鑑賞とかと一緒だ。
書くということを仕事にしていると、記事を書くということが、なんだかやらされている感になって、スキがスキでなくなりそうになる。
だからこういった無駄な記事をぼくはここで量産している。
単純に、それが楽しいからだ。
もちろん、価値はない
もちろん、自分の好きなことを書くだけの記事にはほぼほぼ価値がない。
なぜなら学びがないからだ。
人に価値を与えない記事は、記事ではない。
この世には本当にクズみたいな情報しかない記事もあるが、それよりもゴミで価値がないのがぼくがこのnoteで作っている記事だ。
誰のためにもならず、ただ自分の自己満足のために書きなぐっている。
そしてそれを読んでいる君はなんだ?
すごいぞ。
ファンか?
でもそういう人ほど大切にしていかなければならない。
ぼくなんかの文章を読んでくれる人は、どういうわけか読んでくれたのだし、ぼくにとっては嬉しい限りだ。
しかしまあ、大切にするってなんだろうと思う。
実際、このまま価値のばい文章ばかり量産してもどうなのだろう?
ファンも減るものだし、増やす工夫というか、満足してくれるような文章や記事を書かないといけないのか
そう思うと、変な記事ばかり書いているのもどうなんだ。
でもこれを読んでいる君は、こんな記事が読みたかったのでは?
てことは、価値のない記事には、「価値のない」という価値があるんじゃないか。
すごいことに気が付いた
すごいぞ。
ぼくはすごいことに気が付いた。
「価値のない」記事や文章にも『「価値のない」という価値がある』。
つまり、この世に価値のない記事や文章など存在しないんだ。
結を決めずに訳の分からない記事を多々ぼくは量産するけど(構成とか知るかっ)、今回は良い落ちになったんじゃないか。
待て、いい落ちを付けてしまったということは、それは「価値のないという価値のある」記事ではなくなってないか?
うーん、難しい
価値なんて、なくて良い
結論はこれだ。
結局、これはぼくの遺言的なそれだと思えば、価値なんてなくて当たり前だ。
こういう日記や記録が、誰かのためになってもならなくても、読んでくれる人がいるというだけで、ぼくは幸せだ。
日記なんて価値がない。だけどきっと、そこに価値がある。
禅問答? いや、これが書くということだと思う。