北アメリカ大停電の夜

　夏の暑い日に自宅で仕事をしていると思い出す出来事がある。2003年8月にアメリカとカナダ東部で起きた大停電だ。

　その日の午後、私はトロントの自宅で仕事をしていた。何となく蒸し暑いなと思い冷房の吹き出し口をチェックすると冷風が出ていない。「故障かな？」と思いつつ何か飲もうと冷蔵庫を開けると庫内の明かりがつかない。咄嗟にテレビのリモコンを取り上げるがテレビもつかない。そこでようやく「停電かも」という考えが浮かび、とりあえず外の様子を見てみようと玄関を出た。

　止まっているエレベーターを横目に階段を降りると、目の前の道路の信号機が止まっていて、携帯を手にした人々が小走りで道を行き交っていた。近くにいた女性を呼び止めて「停電ですか？」と訊くと彼女は「そうみたい。携帯も繋がらないし地下鉄やバスも止まってるわよ」と教えてくれた。
　私はそのままアパートメントの１階にあるイタリアンのテイクアウト店に寄り、知り合いの店主と「停電大変だね」「数時間で復旧するかな」「暑いね」なんていう会話を交わし、彼がこのままでは傷んじゃうからと分けてくれたテイクアウトのラザニアを持って部屋に戻った。

　カナダは夏も涼しいと思われがちだがトロントの夏はまあまあ蒸し暑く、8月には30度を超えることも何度かある（当時）。私はぬるくなりつつある部屋の窓を全開にし、３匹のネコたちのために飲み水をたっぷり用意した。夜まで回復しない場合に備えて一応ライトとキャンドルもテーブルの上に出した。
　自宅から車で20分ほどの職場にいる夫に連絡を取ろうにも電話が繋がらないので、とりあえずパソコンの充電の残りで出来る仕事を済ませ、貰ったラザニアを食べた。

　夜７時頃になっても電気が復活する様子がなく少し不安になったので、世の中の様子を探るために駅の方まで行ってみる事にした。
　徒歩10分のところにある駅はトロントの中心にあるオフィス街なのだが、帰宅難民になった人たちで混雑していた。信号が消え警官が交通整理をする交差点はノロノロ運転の車で渋滞しており、数少ない公衆電話の前には行列が出来ていた。地下鉄もバスも路面電車も止まっているようで、道に溢れる人たちの前に自家用車が止まり「〇〇方面に行く人！」と言って数人が譲り合いながら車に乗り込む様子も見られた。おそらくこれは治安の良いオフィス街だから見られた光景だと思う。

　これは思ったより大規模そうだと思った私は近くのカフェで飲み物とパンを買い、来た道を戻った。すると自宅アパートメントの目の前にあるブリティッシュパブが、ビール片手に談笑する人たちでごった返しているのが見えた。
　私はそそくさと自宅に戻ると荷物を置いて、夫に目の前のパブにいる旨のメモを残すと早速そのパブに向かった。しんとした真っ暗な部屋でひとりで過ごすのは嫌だった。

　「冷えてないけどビールはたっぷりあります」とか「安全上の理由でフードは作れません」などの手書きの紙が貼られた店内に入り、ひとつだけ空いたカウンター席に座ると、Ｔシャツを腕まくりした汗だくの男性店員が注文を聞いてきた。生ビールをパイントで注文し携帯をチェックすると、ようやく電話が繋がったらしい夫から「車で帰れそうもないから職場近くの同僚の家に泊めてもらう」と留守電が入っていた。

　熱気のこもる店内でぬるいビールを飲みながら「明日以降も停電が続いたら冷蔵庫の中身どうしようかな」などと考えていると、隣の男性が「ご近所ですか？」と話し掛けてきた。”夫の”帰宅を待つ間にちょっと呑もうと思って、とけん制しながら返答すると、彼も今日は停電で彼女と会えないし家にいてもやることがないので呑みに出てきたんだ、と言った。
　悪気のなさそうな人だったので、停電にいつ気づいたかとか好きな音楽はとかネコ飼っててとか、互いに暇つぶしのようにとりとめのない話をした。

　しばらくすると外は暗くなり、いつの間にか店内にはありったけのろうそくが灯されていた。ぼうっと照らされたざわつく店内で汗だくになってビールを呑んでいるうちに、この空間が現実のものではないような不思議な感覚におちいっていった。
　そろそろ潮時だと思った私が会計を済ませると隣の男性も会計をし、私たちは一緒に店を出た。目の前の建物が自宅だと知られたくないので「コンビニに寄るから」と言うと「そこまで送るよ」と言って信号機も看板の明かりも消えた真っ暗な歩道を何となく並んで歩き始めた。
　５分ほどで非常灯のともるコンビニに到着すると、店の前で立ち止まった彼と３秒ほど無言で目が合った。そして次の瞬間に同時に「じゃあここで」と言ってぎこちない挨拶を交わし、私は店内に、彼は反対方向へ歩いていった。

　彼との会話の中には男女を匂わすようなものは皆無だったしお互いそんな気は全くなかった。ただあの蒸し暑い真夏の、非常時の夜に共に時間を過ごした事で、一瞬だけ何となく別れ難い気持ちがよぎったのだと思う。

　停電は翌日の夜まで続いた。

2003　おわり