LA〜NY 二十歳のたび 前編
大学生3年生の夏にアメリカ横断旅行をした。
アメリカ横断は私が学生の間に是非やっておきたいことのひとつだったのだが、ある日「夏休みにアムトラック(アメリカ横断長距離列車)のチケットを取って行こうと思う」と友達のA君に話したところ、彼も卒業旅行でLAに行く予定なのでそこからNYまで車で一緒に横断しないか、という棚ぼた的な話が持ち上がった。
私は車の免許を持っていないけど本当に大丈夫か聞くと、一人では無理なので一緒に行ってくれる人がいるだけでありがたいと言うので、私もその話に飛びついた。行きは彼の運転する車に同乗し、帰りはアムトラックでひとり旅を楽しむことにした。
時間と予算の都合上、ほぼ走りっぱなしで5日間でNYまで行くという超ハードスケジュールだったので、彼が朝から晩まで運転し続けて私は助手席でナビと食事を担当した。食事も通り道のファストフード店のテイクアウトかスーパーで買いこんだパンと缶詰を車内で簡易サンドイッチにしたもので済ませ、トイレ休憩がてらガソリンスタンドに寄り、毎日暗くなるまでに宿泊施設がありそうな近くの町を地図で探し安モーテルに泊まった。
道中で二度ほどヒヤっとするトラブルがあった。
一度目はユタ州の郊外でその日の宿泊先をようやく見つけた夜9時ごろ、A君が建物の入口を探しに行っている時、なかなか戻ってこないA君を探しに行こうとして“インキ―”してしまった時だ。あれこれ試したが全く開かないので、モーテルの電話を借りてAAA(日本でいうJAF)に電話すると「その車種は特殊な機械じゃないと開かない」と言われ来てもらうことになった。
車の外で二人で待つ一時間は針のむしろだった。ただでさえ運転を交代出来ないのにこんな馬鹿なミスをして、運転でクタクタになったA君に余計な負担をかけてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも幸いまだ旅の前半でお互いを思いやる余裕があったので、A君は怒ったりせず「まあしょうがないよ」と言って慰めてくれた。
二度目は農地が広がるコロラド州の田舎町で、8月だというのに雪が降った夜だった。近くの町を探しながら走っていると、おんぼろのトラックが道端で立ち往生していて50代ぐらいのおじさんがこちらに向かって手を振ってきた。もう暗かったのでスルーしようか二人で迷ったが、雪も降っているし他に車も通りそうもなかったので気の毒に思って車を止めた。
おじさんは近くの農家の人で「車が故障してしまったので自宅まで送って欲しい」とのことだった。特に大柄というわけでもないし大人しそうなおじさんだったので、特に危険はないだろうと思い乗せて行ってあげることにした。(今考えると絶対ダメだけど)
道中、気を遣って私が助手席から振り向いておじさんと世間話をしようとすると、急にそのおじさんが激昂し「君たちとは話をしたくないから黙っていてくれないか!」と言ってきた。A君も私もその強い口調に驚いて黙り込んだ。「後ろから撃たれたりしませんように…」と祈りつつおじさんに言われるがままに15分ほど走り、ようやく自宅に着くとおじさんは不愛想に「Thanks」とだけ言って乱暴に車を降りていった。
車が故障してただ不機嫌だったのか、それともアジア人が嫌いだったのか、理由はわからないけどA君も私もこの出来事でひどく疲れてしまい、その日は言葉少なにモーテルにチェックインし、泥のように眠った。
これ以外にもトラブルは色々あったし、せわしない旅だったし、5日間の後半にはA君との空気もかなり悪くなってきたのだけど(そりゃ他人と5日間もずっと2人きりでいたらお互いの存在が疎ましくなる)、当時憧れていた「アメリカ」という国の色々な顔を見ることが出来たのは本当に興味深い体験だった。
おそらく車での横断旅でなかったら一生通らないであろう小さな町のスーパーやガソリンスタンドに立ち寄り、雲の影がくっきり見えるほど何もない平原に挟まれた、真っすぐ一本にのびるハイウェイで大音量の音楽をかけて走ったり、真っ暗な砂漠地帯を延々と走った後に忽然と現れるネオンだらけのラスベガスの街にワクワクしたり。
二十歳ごろのあの感受性があったからこそかけがえのないものに感じられた大切な思い出がたくさんできた旅だった。スマホカメラもビデオもなく、使い捨てカメラで時々撮った写真しか残っていないけど、なんていうことのない車窓の景色の数々が今でも鮮明に浮かんでくる。
1995 前編おわり
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