神社仏閣巡りの記 (1) --浅草寺その1--
なんか自分のノートを読んでいて文章が長くて、真面目なことを書いてて面白くなくて、最初は息抜きのために書いてたのに全然読んでて面白くないので、読んでて自分がもっと詰まらなくて、何の出典も示されない、昔の恥ずかしい思い出を思い出してもっと恥ずかしくなるようなのを今までに僕が訪れたことがあるお寺に絡めて書いてみようと思って書く。
浅草の浅草寺というのは多分雷門で有名で、日本とか東京というと割とフィーチャーされるものだと思う。
僕は東京の下町の方の出身であり、子供のころから都会というと上野か浅草か銀座という感じだったので、幼いころからよく家族でいったものだ。ただ、地元民であるからこそ浅草寺のお参りなどろくにしないのだ。
横浜市民に中華街に行くかとか、山下公園に行くかというと滅多に行かないというだろう。みんな西口で飲んだくれるのである。
僕らも同じで、浅草に行くというと、雷門か六区に行く。浅草寺は仲見世が混むから行かない。
何しに浅草にいくかというと、雷門エリアには東武浅草駅の松屋デパートに買い物に行く。最近は松屋の意匠がレトロで人気があるとかいう。
また、松屋の二階には東武の浅草駅が入っているが、もともと浅草駅が隅田川を渡ってすぐのところに、隅田川と平行に配置した関係上かなり急なカーブが駅の構内にできてしまった。上の地図で東武線は隅田川を渡って浅草駅に入るときに90度のカーブを短い区間で曲がってるのがわかる。
そのため、先頭車両の方はホームと電車の隙間が大きかった。電車が浅草駅に到着すると駅の係員がホームと電車の間の渡し板を渡して歩くのである。しかし、僕は昭和のクソガキだったので、そんな渡し板が来る前にぴょんと飛び跳ねてホームに上がっていた。
そしてなんとなく雷門まで行って人が多いなと言いながら、雷おこしやあんみつや煎餅を買いに行く。何をしに行ったのかはあまり記憶にない。
浅草寺の浅草神社も三社祭で有名だが、あれも人が多いし、自分の町のお祭りではないから興味もないしいかないのだ。だから三社祭はテレビでしか見たことがない。
そして、僕は昭和のおじさんであり、あの時代は外食というのはあまりなかったのだ。どちらかというとおじさんたちが外で飲んでくるようなイメージがあり、子供はおうちでごはんを食べるものであった。
従って、外でもおやつにおなかがへったらあんみつ屋に入るか喫茶店に入って何か軽く摘まむ程度であった。例えば浅草であれば梅園なんかが有名だ。
喫茶店も昔ながらのレトロでありモダンな喫茶店があり、そこでアイスクリームを食べさせてもらったりした。
そして新仲 (しんなか、新仲見世通り) あたりを冷やかして、人形焼きと雷おこしを買って帰るのだ。また、時間が夕方に近づくと、葵丸進で持ち帰りの天ぷらを人数分買ってうちに帰る。ここは東京風の衣がとてもしっかりした天ぷらである。バブルのころから天ぷらもすっかり上方風の薄くてさっくりした衣で食べるようになったが、やはり関東風の天ぷらというのはお好み焼きの生地に近いようなぼってりとしっかりした衣でしっかりと火を通すのだ。
今となっては外で食べていってもいいようなものであるが、昭和はごはんはおうちが基本の時代なので、葵丸進のかき揚げを買っていって、うちに帰って天つゆにどぼっとつけて、それを火にかけ、十分にかき揚げに天つゆをしみ込ませて大盛ごはんに乗っけていただくのだ。
おいしい天ぷらが台無しだって思うかもしれないが、ときはまだバルブに突入して多彩な食文化が花開く前であり、東京は文化が下ってくる野蛮で未開の地であり、食事はしょっぱいおかずに大盛ごはんが基本であった。
たまの外食となると、東京東部の人間は昔はほぼもれなく蕎麦屋か天ぷら屋か寿司屋であった。とき未だファミレスが大規模出店を本格化させる前である。
浅草では僕の家では主に雷門エリアでは尾張屋に入っていた。尾張屋もいくつかあるが雷門からちょっと離れたところのを使っていた。
ここに入って主にざるそばか天丼を頼むのである。蕎麦屋で天丼もないものだと思うが、天ぷら屋に入ると天丼か天ぷらか天重しか食うものがないが、蕎麦屋では蕎麦もうどんも天重もかつ丼も食えるし、酒だって飲める。みんなが食いたいものが違くてもなんとなく全部受け止めてくれる。だから蕎麦屋に入る。そして下町の蕎麦屋はたいてい盛りが多く、最後の締めに蕎麦湯をもらう。そして六区の方のバス停まで歩いてバスで帰るのだ。
一方で、六区といえば花やしきであり、寿司屋であり、大黒屋だ。
ただ、僕がガキの頃は花やしきは大変入場料が安いので、こじきのたまり場になっていたし、なにより後楽園の方が圧倒的に規模が大きく、面白かったので、大人になるまで花やしきに行ったことはなかった。同級生でも遊園地は圧倒的に後楽園が人気だった。
なおディズニーが有名になるのは昭和の終わりであるが、はるかかなたにあるアメリカ初の超現代的エンターテインメント施設であり、僕らみたいなクソみたいな下町の洟垂れ小学生はあんなキラキラした夢のような世界に行こうなんてあまり考えてなかった。
六区に行くとなると大体は河童橋に金物を買いに行くか、寿司屋に寿司を食いに行くかであった。昔は映画館もあったらしいが、よくわからない。
ともかく祖母が六区のあたりのひといきれのなかを歩くのが好きだったので、よくバスに乗って連れていかれたものだった。
なお、上の地図を見ればわかるように、東武と銀座線と都営浅草線の浅草駅は雷門の近くで、六区はそこから離れてて少し歩かないとつけない。だから僕らは都バスに乗って六区のバス停で降りてそっちに行っていた。
別に何することなくブラブラして梅園であんみつを買って帰る。
あんみつすら持ち帰りでうちに帰ってからあけるような時代だった。もっともこれは僕のうちに固有のことだったのかもしれないが。
さて、そんな不信心な家族でも数年に一度は浅草寺にお参りをする。
主に初詣に行くわけだが、地元に近いので、どのくらい壊滅的に混むかはよくわかっていたので、正月三が日のうちに浅草寺の初もうでなどはいかない。大抵は学校の冬休みが終わるあたりに夕方におっとり刀で出かけるのだ。
そして仲見世を通ると混むものだから、東武の浅草駅の北口から仲見世の混雑をスキップしていく。その時間になると参拝で並んでるのか単純に仲見世が混んでるのかわからなくて、誰も文句も言わないし、警備員も適当に誘導している。
大体こんなところに住んでると浅草寺の関係者と知り合いっていうのが身内にはだれかしらいるもので、賽銭をほおってもあいつの小遣いになると思うと気持ちよくお賽銭を上げられないとか文句を言いながらお参りをして、そしてお土産物を買い帰路に就く。
そういえば浅草といえば昔はやたらと硬い入山煎餅というのが六区だったか新仲のあたりにあって、それもよく買って帰った。
今は浅草の松屋の中に入っている。
近年には珍しい前歯が折れるような堅い煎餅であり、是非試してみていただきたい。
さて、浅草というと、ロック座とか浅草芸人とかの芸事が有名であり、また、その北の方には山谷があったり、吉原があったりする。
江戸時代は浅草寺のあたりが江戸の果てであり、吉原遊郭みたいな迷惑施設は都市の辺縁に置かれたのである。未だに都内でも交通の便があまりよくない所である。そして、吉原で病気になった遊女を収容したのが浅草寺の裏手、二天門のあたりにある浅草寺病院らしい。
浅草は享楽的なところがありつつ、そういう後ろ暗いものも容赦なく訪れる人に見せるところがある。欺瞞がなく、僕はそういうところで大きくなったので、そういうものを世間の目から離そうとするのはあまり好きではない。一方で、そこに何らかの悲劇性や文学性を見出し、取材と称して観光に行くのもあまり好きになれない。ただ僕らは互いの彼岸に暮らしているのだ。
吉原は江戸時代からあったのだが、一方で、山谷は高度経済成長期に都内の建設工事をするときに圧倒的に人が足りなかったので、地方から大量の労働者を招き入れて建築業に携わってもらうことになった。そのとき丁度東京の辺縁部で家賃が安く、工事現場にもアクセスしやすかったのが山谷エリアだ。山谷通りという通りが浅草駅の北側から南千住駅まで伸びており、その沿道に多くの木賃宿が開業した。幾たびの好景気と不景気を経験し、失業してその後の再就職がかなわなくなるものが増え、また都市が成熟し、建築技術が成熟することで多くの人が必要でなくなった昭和の終わりから平成のころは山谷はホームレスのたむろする街だった。
一方でまだ日雇い労働者の確保が必要な場面があり、朝に学校に行くときには手配師がハイエースに乗って現れ、おじさんたちをつれて出ていくところをみたりしたし、一方でそういう社会から見すてられた人たちを支援する福祉団体も活動していた。
僕は基本的に左翼はあまり好きではないのだが、そういう日本社会を作るために働いてくれた人たちの面倒を見ようとしたのはそういう団体だったり、キリスト教系の団体であったりした。彼らがやらなければ誰もやろうとしなかったことであり、やはりそれなりに社会に必要なものなのだ。単純にリベラルは怪しからんといえないのはそういうのを見てきたこともある。
一方でじゃあ山谷の住人たちが一方的な被害者であるかというとそんなことはなく、昔はあの辺は都内でも有数な当たり屋被害多発地帯であったといい、父はたまに車で浅草の方に行くときにここは山谷でちょっと危ない所だからクラクションは絶対鳴らさない。そんなことしたらおっさんたちに取り囲まれて引きずり出されると細心の注意を払って運転をしていた。
実際に品川ナンバーとかが知らずに山谷通りに入ってその辺をふらふら歩くおじさんにクラクションを鳴らしたら信号待ちで囲まれたのを目撃したそうだ。何事も一方的に正しいものも一方的に悪いものもない。山谷のおじさんたちも時代に見放された被害者でもあり、調子こいたよそ者を取り囲んで脅しをかけるような加害者でもある。
ただし、そんな山谷も平成の中頃から日本を訪れる外国人観光客には彼らの祖国のスラムに比べたら治安がよく、宿泊費が安いエリアであったから割と人気の宿泊スポットであった。今日でもそれなりの数のバックパッカーが山谷の木賃宿に泊まっているかもしれない。
さて、浅草寺について書いてみたが、地元が近いので思いのほか書くことが多く終わらなかった。また次回に続きを書くことにしてここで一旦筆をおきたいと思う。
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