《誓願、夢、希望》を有し生きることの大切さ

ー因縁、奇縁の本質的意味ー
ーご挨拶とエールー

今年もあと数十時間。
世界中のほとんどの方にとって、例年以上の変化が訪れた一年。
きっと喜びばかりでなく、苦悩に据えた一年ではなかったかと慮んばかります。

私にとりましても世に違わず、様々な変革が迫られ対応し続けた一年でした。年末になり疲れがたたったか、今までなかったような身体の痛みが現れ、活動しながらも、より身体と向き合い労っておりました。

勤めの寺院では、例年2000人ほどが集まる万燈除夜の鐘、年始の祈祷法要はなくなりましたが鐘は山内人員にて行い、年始にはお札の配布などあり、例年と違う準備を考慮しながら行っています。今年は今回の行事だけでなく、何百年ぶりとなるはずだった大きな行事が中止となったりと、失意の中で、それでも前を向いて進んで参りました。

私のzafuにての活動は、対応や変化が迫られながらも、こんな時だからこそ「禅セラピー」を伝え、多くの方に禅の基による安らかなる時と生きる指針をと想い、制限される中でも精力的に活動し、ご依頼もいただきました。例えば春のNHKワールド出演やいくつかの動画出演。自ら構築したオンラインの講座やマスク不調動画の作成。ハートウォーミングディスタンスの普及活動。そして「禅セラピーインストラクター養成講座」を初開催し、18名の禅療法士を誕生させるなど。数えてみると講座講演回数は80回を越えていました。変化を強いられた中で、多くの新しいご縁やお話もいただき、来年に向けての動きも少しずつ見えて参りました。

仏教に「奇縁」という言葉があります。いわゆる奇跡の縁です。この場合の「奇」というのは”特別な”というよりは、今私がいるその縁自体がすでに有り難い状態であること。「奇縁」を有す生き方とは、自らの境遇への感謝や他者への慈悲。そして尊厳と敬虔を有しこの人生を臨んでいきましょうということです。

そして「因縁」という言葉もあります。これは仏教の基本概念です。よく「因」があるので「縁」が興るという表現がなされますが、本来仏教に於いては、築く「因」自体も本来諸行無常であり固定化されないはずなので、この表現は適切とはいえません。

本来は「縁」というものが、私の及ばない処にてすでに用意されているので、その準備ができたとき、結果「因」となるのです。

特に「良縁」を「因」に到達させるの必要な準備とは、
《誓願、夢、希望》を基にした、
この世界との調和を見据えた学びや実践。

来年も続くコロナ禍からの経済停滞や社会不安。
それにに伴う貧困、意識荒廃の歯止めが利かず流れていく可能性があります。

だからこそ「奇縁」としてこの世に生を受けている一人一人が、
苦しい状況であっても《誓願、夢、希望》を持ち続け、
自身と社会に対し労りと慈しみを持ち深く向き合いコミットしていくこと。

それが
何十年も生き続ける私たちの、
何世代後も生き続ける人類への、
何臆年も生き続ける地球への、
未来へ続く想いと実践になるのです。
これは絵空事ではなく、過去から続く現実の結果です。

今《誓願、夢、希望》が持ちにくい社会になっていっていると感じます。
「未来への不安により子どもを生まない選択をする」という運動もあります。
私はこれを知ったとき大変悲しかった。と同時に活動者の真剣さが突き刺さりました。
そのようにしているのは誰か。

社会や生活にて起こることを
《諦め、不安、反発》として流すのでなく、
《誓願、夢、希望》として向き合い、
具体的な想いを持ち動いてみませんか?

「個々の愛を育てることからしか平和は実現されない」
ダライラマ法王の言葉です。

ほとんどの方が苦悩を有した今年終わりに。
来年のエールとして想いをお伝えさせていただきました。

諸縁の皆様、今年もどうもありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いします。

皆様にとりまして、来年が善きご縁を有す年になりますよう、
深く祈念させていただきます。

2020.12.30
zafu代表 藤井隆英 拝

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