
悟っているのか問題(ガネーシャ天のお言葉)
先生の生徒には、ガネーシャ・ヨガを何年もされている方がいます。
ガネーシャの御言葉を伝えるメッセンジャーをされている方もいます。
その人と長い会話がありました。
その会話の途中で「ガネーシャの御言葉が降りてきた」と言います。
生徒は、こう切り出されました。
生徒「ガネーシャ天から、悟り、悟り、悟りって言葉が降りてくるんですが、真仙さんは悟ってるんですか?」
私はすこし沈黙しました。
数秒の沈黙の後に言いました。
真仙「まぁ、それについてはコメントを差し控えさせてください」
生徒「それは悟ってるってことですよね」
口からエネルギーが流れるままにおっしゃいます。
私は熟考していたことを答えます。
真仙「悟りの定義によりますよね」
私はこうも同時に思っていました。
(ガネーシャ天の言葉にはウソがない。しかし、もし自分が悟っていると定義したら妙な感覚を受ける。悟っているのは先生だと思うのだけれど)
この微妙な問題をご存知ですか。
悟っているのか問題です。
悟っているとか悟っていないとか。
目覚めているとか目覚めていないとか。
この言葉がスピリチュアル界隈にあふれて、皆さんを混乱させていますよね。
みんな悟った気になっただけで、悟りを自称します。
本当の意味では何も理解しておりません。
真実の意味があるのです。
生徒「その辺、どうなんでしょう? シヴァでも悟り悟りって言いますけど、ガネーシャにはそういうのはあんまりないのに、悟り悟りって言葉が降りてくるのが不思議です」
食い下がらずに聞いてくださるので、私は思わず笑い出して答えることにしました。
ガネーシャ天にはウソはつけないなと思いました。
真仙「もし、究極の光明意識(アベル=キリスト意識)と一つに溶け込むことが悟りであるならば、そうかもしれません。確かに私は究極の光と溶け込んだことがありますから。ですが、私は悟りとかそういう言葉(使われすぎて本来の意味が失われた文脈では)はどうでもいいんです」
その上で、まとめるように私は告げました。
真仙「キリスト意識のマスターの道(先生を含む)を通って、その光に溶け込んだという感じです」
あらゆる人がその聖なる道を通れば、最初の神の光(アベル=キリスト意識の光)と一体化できます。
であるならば、私個人の悟りというのはあまり重要ではありません。
人によりけり、この抽象的な言葉で論じることは遠慮させていただきたいですね。
実は悟りには、本当の明確な定義があります。
ヨガの精髄の知識、西洋の霊的知識。
それらには共通の真理が見られます。
霊的な知識を深めた人たちは古今東西を問わずに知っていることです。
まず、小さな悟りと大きな悟りがありまして。
その違いについて話さないといけませんね。
真の悟り、というのはこの宇宙の真理を完全理解することです。
それを実現するためには、どのようなことが必要なのでしょうか。
なぜ、行者は瞑想をするのでしょうか。
実は瞑想をすることで神様のエネルギーを下ろして、チャクラを開いていくことにヒントがあります。
そこに悟りをもたらす原理があります。
エネルギーが流れれば流れるほどにチャクラは開きます。
小さな悟りは、ひとつひとつのチャクラが浄化されて開くことで訪れます。
第一チャクラが開いたら、その向こう側の物質世界の実体が理解できます。
第二チャクラが開いたら、その向こう側の幽界が理解できるようになります。
第三チャクラなら第三チャクラ。第四なら第四のものがあります。
下位チャクラが開くことで、下位次元の宇宙世界の裏側を理解すること。
それがいわゆる「小さな悟り」なのです。
そして、それが第六、第七チャクラまで及んだ時に、人はこの世界の実体について理解するようになります。
第六チャクラが全開になり、その向こう側に入れるようになった人。
その人には、光の世界が見えてきます。
そこにはスーパーマインドと呼ばれる
物質の元となった光があります。
その光で宇宙が形作られ、構成されているのを見ます。
宇宙の創りがわかるようになります。
超越的な音を聞いて、光を見ます。
それを完全に会得した人。
その人は「大きな悟り」を得た人です。
真の聖人、覚者、マスターと呼ばれるような人は、この大きな悟りに達しています。
しかし、その大きな悟りをもってしても究極ではないのです。
究極は、すべての始まりである神ロゴス(=キリスト意識)の光と一体化すること。
光は光でも、「最初の光の意識」があるということです。
その最初の光と一つになった人。
その人は究極の理解に達します。
「すべては自分だった」という理解に達します。
なぜなら、宇宙のすべてのすべての始まりに至るのですから。
その光の意識に自分を溶け込ませるとわかることがあります。
この宇宙は自分から生まれ、自分の中に消えていくことをはっきりと見ます。
その理解に達した人は、キリストがそうであったように、カルマの法則を超越できるようになります。
赦しの力が芽生えてきます。
それはキリスト意識のマスターたちが与えられた印です。
神の最初の意識にはカルマがありません。
それと繋がっているものだけが、真の赦しを与えられるのです。
かくして、キリストは人の罪(カルマ)を赦すことができました。
神意識(キリスト意識)と一体化すること。
それが「究極の悟り」であると私は考えます。
神そのものにして神。
始まりの意識。
そこから神々も天使も人間の意識も生まれたのです。
すべての人間が力を合わせても、それを超えることはできません。
すべての神様が力を合わせても、それを超えることはできません。
それ以上の意識は存在しません。
なぜなら、それはすべてのすべてなのだから。
そして、それがすべてなのだとしたら、私が悟っているか悟っていないかはどうでもよいことです。
大切なことは、すべての人がその最初の意識に自分を合わせれば、完全に悟り得るということです。