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神はどこにいるか(見神の発生)

どうも、真仙です。

今回は「神はどこにいるか」というテーマでお話します。

見神(けんしん)という言葉があります。
神を見つける」と書いて、見神というわけですね。

言葉の意味もその通りで、神の本体を心で感じ取るということですね。
霊的な探求者は、最終的には見神を体験していきます。

神を見つけるところまで行くと、探究の終わりに辿り着きます。
もう、探すべきものはなくなります。

じゃあ、神はどこにいるのかという話です。
どうやって、それを見つけるのでしょうか。

実際に、神はどこにいると思いますか?


・神の居場所を考えてみる

神とは、本来的には人間の言葉の定義には収まらない存在です。
私の理解や考えを差し置いて、世の中には色んな意見もあります。

神はどこにいるかと聞かれたら、天国にいると考える人もいるわけです。
他には人間の内側にいるとか、自然の中にいるとか、色んな立場から様々な意見が存在しています。

それらは、あくまでも推測や意見でしかありません。
実際に神がどこにいるのかを本当に知っている人は少ないです。

私は推測とかではなく、本当の意味で神がどこにいるのかを知りたかったのです。
どれだけ素晴らしい教えを聞いても、自分がそれを認識できるまでは納得できるものではありませんでした。

机上の理論では、まったく満足できませんでした。
もちろん、宗教の教義を聞いても同じくです。

神とは何かを語る人がいたとして、その人は神を見つけたのでしょうか。
見つけてないのに、なぜそう言えるのかと思うわけです。


本当はどうなっているのかと考え抜き、探究に探究を重ねてきたわけです。

神と合一する具体的な道を探し出し、師を見つけ出して、ヨガの中のヨガを教わることになりました。
そうして、自分の知覚力を開いて、神を見つけ出そうとしたわけです。


・神を見つけ出す前夜

何年も瞑想に打ち込み、ヨガを行じ、祈り続けてきました。
師から霊的に最速で成長できるヨガを教わり、打ち込み続けました。

教わったあらゆるヨガに取り組みましたが、特にキリスト意識(=神意識)の瞑想が効果的でした。
その聖音を唱えると、どんどんと光が流れ込んできて、チャクラが開き、霊的な知覚力が高まっていたのです。

その光を受け入れていくのにも、何年も時間をかけたわけです。

神の光は宇宙すべてを照らし出す光であり、ものすごい強い光です。
無限の太陽のように、まぶしくてまぶしくて、たまらないのです。
その光が来ると喜びも深いものがありますが、それと同じだけの力強さもあって圧倒されるほどでした。

身体を光に少しずつ慣らしていくと、ある日変化が起こりました。
光を受け入れられる量が臨界点を超えたわけです。

神の無限の光が頭の中にとめどなく流れ込んできて、脳全体を押し広げるようにして満たしていきました。
頭が光で爆発するかのようになったのです。

全身にも光が満ち満ちて、至福に圧倒されていました。

神の原初の光は、全知の光でもあります。
すべてを照らし出し、すべてを実現し、すべてを知っています。

その光こそが私を霊的に進化させました。
霊的な知覚力を全開にすることで、神を理解できるように変容させていきました。


・とうとう神を見つけ出す(見神の発生)

それはある種の瞑想体験として起こってきました。

心眼を通して、神のとてつもなく純粋な始まりの光が見えてきました。
宇宙世界の原初の光は、色という色がわからないぐらいに純粋です。

その光に意識が合った瞬間に、あまりの喜びで意識が吹き飛ばされそうになります。
至上の喜びとしか言いようがありません。
この上なき幸福です。

神の純質とも呼べるものでして、すべての意識の起源でもあります。
すべての魂はそこから生まれ、そこに還っていきます。
宇宙世界もそこから生まれ、そこに還っていくのです。

私の意識は、神の純粋な光の中に入り込みました。
思考も感情も欲望も、すべてが真っ白になって溶けて、消え失せていくのを感じていました。

言葉も消えてしまいそうになるぐらいの至福があります。
ただ、神と一つになりたいという祈りだけは、持ち続けることができるのです。
というよりも、不断の意志力で維持しているという感じが近いです。

そうして、神との一体化を求めて祈り続けていました。

神はどこにいるのか。神とは何なのか。
神とは、この光そのものなのだろうか。

その答えを神から明かされることになりました。

私の意識が神意識の光の中に溶け込むと、無限に広がり渡っていくかのような感覚になりました。
その時、頭の中にも光が広がり渡って、すべての滞りがなくなり、光が満ち満ちていきました。

神の光によって脳内のチャクラが開き、霊的知覚力が全開になり、突如として神が理解できるようになりました。

神がビジョンを見せてきました。

無限の光の中に、宇宙世界がすべて映し出されているのが見えました。
全宇宙は、神の光によって投影された映像のように見えました。

私の意識は神の無限大の光そのものになっており、まるで自分の内側に全宇宙が展開しているようにも見えました。
たとえるなら、腹の中に全宇宙が収まっているようなのです。

そこには全ての星々が見えたし、地球も見えました。
さらに意識すれば、すべての人間が動いているのが見えました。

――自分の中に、すべてが収まっている。

しかし、それでも問いかけ続けました。
神は純粋な光なのか。
それとも、全宇宙なのか。

純粋な光を超えるように集中していると、あらゆる波動という波動を超えていきました。
何もないように見える始まりに、無色透明なる形なき何かがありました。

完全なる純粋性。永遠不滅の絶対性。
ないのにあり、あるのにないという。

無と有が同時に共存している。

起源の中の起源。始まりの中の始まり。
神とは、絶対無(=絶対有)そのものなのだろうかと思った瞬間。

私の意識は、自室の部屋の中に戻っていました。

部屋を見渡したときに、無色透明なる神がそこら中に満ち満ちているのがわかりました。
部屋の壁にも、天井にも、身体の内側から吐息の中にさえも感じられるのです。

それと同じものが全宇宙にも満ち満ちており、原初の光の中にもあり、さらには無と有の境地にもありました。

――神はどこにでもいる……

私の内側にも外側にも、神は確かにいるのだと感じていました。
原初の無色透明な何かが、そこら中に満ち満ちて、確かに私を満たし、包み込んでいるのを感じていました。

それは純粋な光と音でもありながら、それら一切を超えて、全宇宙から存在のすべてに満ち満ちているものでもあります。
絶対的な不滅の何かが、どこにでも存在していたのです。

天なる声が聞こえてきました。

「すべて神と思いなさい。そうすれば、もう探す必要はなくなるだろうから」

星々、動物、草木、虫、鉱物、それどころから砂粒一つの中にさえも神がいたのです。
時間と空間を超えたところから、この地上世界に至るまで。
すべての人間の内と外にもいて、宇宙すべてに満ち満ちていました。

世界の隙間なく、神のいない場所はありませんでした。

――あなたはどこにでもいた。

神を見つけた喜びは計り知れず、感嘆と至福に打たれていました。
両手を合わせて、心から感謝の祈りを捧げました。

ずっと今までも神はどこにでもいたのに、自分が気づいていなかっただけでした。

もう、あなたを探す必要はありません。
神の中で生きていたんですね。
ずっと一緒でした。

それを自分で感じ取れるほどに、真のヨガを行じる人は必ず見つけ出します。
神を見つけ出した人は、宇宙すべてを満たすほどの平安の中で生きられることでしょう。

神は透明な空気のようにありふれているから、見つけがたかったわけです。
霊的に開かれれば、内側の奥深くにも、外側の世界にも、神を見つけ出すことができます。

内面からすべてを捨てて、神を見つけ出すと、不思議な逆転が起きます。
すべてを捨てたのに、すべてを得ることになります。
神と一つになって、全宇宙に広がり渡っていきます。

『汝の敵を愛せよ』

――敵などいなかった。