線を引くということ。
今世界が、戦争の行方に応えを求めているような気がする。地球資源の奪い合い・利得権争い・宗教の押し付け合い・支配欲の代償・・。戦争になる発端は、たいていそんなところなのだろうか。
「核」を保有するようになった現代は、すべてを破壊してしまう力つまり地球という生命も脅かすまで、人類は何かの欲を手放すことが出来ないのだろうか。
そもそも、地球は誰のものなのだろう?
(。´・ω・)?
この星自体が生きていて、私たちを生かそうとしてる。私からしたら、地球自体誰のモノでもないのに。ただ・・海は何も語ることなく浄化し続けている。山は泰然と佇んで、恵みを私たちに届けている。
私たちは、生きようとして「生きている」だけでなく「生かされている」という視点を失ってはいないだろうか。
大学生のとき、東洋と西洋の文化的思想の相違を勉強したが、その温度差に愕然としたことを今でも覚えている。東洋では「私たちは自然の中の一部である」と捉えているに対し、西洋では「人間は、神に選ばれた存在で、支配する力を持っている」という根底のキリスト教的世界観が根強いのだ。文明や科学・芸術をあれだけ発展させてきたのは、人間が自分たちの力を信じる西洋的思想の原動力があったからだと言えるであろう。私たちは、その恩恵に今日与って生きている。
人間が自分たちで生み出し、発展させていくことを教えてくれた西洋も、自然の中で自然に感謝をし、共存共栄の大切さを説いてくれた東洋も、どちらも大切な視点だと私は思う。
なぜなら、私たちはまず、自然に「生かされている」し、自分で衣食住を整えて、自由意志を持ち合わせながら「生きている」からだ。どちらかに偏れば、受動的すぎたり、能動的になりすぎてしまうような気がする。人間は欲望と同時に、受動的になりすぎれば、他力本願や責任放棄を生み、能動的になりすぎれば、慢心や闘争・破壊を生みやすくなる。そしてそれは、地球全体の生態系にも影響を与えてしまう。
戦争が勃発するときは、権力者の思想が、なんらかの欲を絡ませた能動性に偏り、戦地の弱者が、成す素手もなく受動的に血を流す構図が待っている。光と闇のコントラストがはっきりと映し出される。
地球という星に、生かされている。原始地球のどんなモノも、何物も、誰のモノでもなかった。と私は感じずにはいられない。きっと・・必要なのは「支配」ではなくて、自由と権利に対する「責任」だ。自分のモノとか、そういう所有や支配感覚で、線が引かれてしまうことが続いていくのなら、血の歴史に休止符が一時的に機能したとしても、終止符が打たれることはないのだろう。
私の好きな小説の一節にこんな台詞がある。「その忠節は、俺にではなく、王冠に捧げられるものでしょう?なら、誰が被っても同じことです。持ち主が誰かは問題ではなく、そこにある王冠があるというだけが重視され、人は皆それに向かって、頭を下げるのです。」(デルフィニア戦記より)
私の体験上、本当の指導者というのは、この台詞を吐露した人のように、実力を持ち合わせていながら、その指導者という立場にはまるで興味がなく、立身出世を望むわけでもなく、誰も廻りに相応しい人がいないから、「まあ。仕方ないか。責任を持ってやるしかない。誰かもっと適任がいれば、その時は執着することなく、代わろう。」くらいの少し冷めている適度な温度を持っている人が丁度いい人材なのではないかと思う。なぜなら、自分を特別視したり、自分の存在意義を勘違いしたりしないからだ。
そういう人はまず表舞台に上がってくることが少ないので、夢物語になってしまいやすいけれど・・・。
(・_・;)
国という線があるからこそ、私たちは護られていて、生きていける。その線は防波堤にもなるけれど、排他性も同時に生むこともある。陸続きの国々では特に、線の変更は常に起こりうることで、とても脆いモノのようにも思える。
それならば、今まで築き上げてきた線の概念自体を、私は見直してみたい。「何のために」「誰のために」は、勿論のこと、それは「地球のため」「全体のため」になるのか。そんな視点から、この世界のことを考えられる指導者が誕生してくれることを私は切に祈らずにはいられない。
線を引くということ。
少なくとも私にとっての線は、相手様と自分の領域を侵さないため。そしてお互いに自分に集中して成長させるためにあるのだと信じている。自分にとっても、相手にとっても、どうすることがお互いを守り、何をシェアすることが出来るのか。そして、どうすれば、全体として進化していけるのか。国も文化も文明も、人の心がすべての源であり原点ならば、その在り方に、きっと応えはある気がしている。
私は路傍から、そっと・・今日も人の心をみつめながら、問い続けている。
「何のために、貴方は線を引くの?」と。
Sara
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