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黄金のトラックは私たちをつなぐ。

世の中というのは、「きっかけがなければ一生知ることのない人やモノ」で溢れかえっている。
死ぬほど当たり前のことを書き出しにしてしまった。

札幌の高校に進学して野球部に入ったこともあり、クラスの中では割と活発なグループに属していた。
だからといって決して私自身がイケイケだった訳ではない。
それは初期のあだ名が「リシリ」だったことからも容易に想像がつくと思う。
同じく野球部の同級生で、胆振の伊達市から来た男のあだ名は「ダテ」だった。
都会の高校生は、単純で残酷である。

クラス内の別グループと絡むことは日常ほとんどない。
唯一の機会は文化祭だった。
「俺たちのキズナ、他のクラスの奴らに見せつけてやろうぜ!」的な、あの独特の浮ついた雰囲気に私も見事に取り込まれ、普段話したこともないクラスメイトにも馴れ馴れしく接した。
俺はフレンドリーで熱い男だ。
そう思い込んでいた。
そして文化祭が終わればいつも通り、ほとんど絡まなくなった。
今、彼らの立場を代弁すれば、「なんなんだアイツ」だ。

あの時、うわべだけでなくもっと興味や関心を持って人と接することが出来ていたら自分の世界は広がっていたかもしれない。
きっかけさえあれば、自分とはまるで違う場所や環境で生きている人やモノでも、実は驚くほど近い所でつながっていることだって、きっとあるのだ。

24歳で金沢から札幌に戻り、その冬今の会社にアルバイトとして入社した。
そしてその年の初夏、次兄に拉致られた。
まあ当然語弊はあるのだけれども、当時の私の心境としてはそうだった。

兄はそのころ、札幌の隣、北広島市にある運送会社で大型トラックのドライバーをしていた。
全国各地とまでは行かないものの、道内のあらゆる場所に花や野菜、家具などを運ぶ仕事だった。

その兄から「手伝ってくれ」と頼まれた。
絶対にイヤだった。
学生時代に札幌に帰省した際、「運転中退屈だから付き合えや」ということで、一度だけ同行したことがあった。
10トントラックの助手席に座り、札幌から小樽の花屋に花を届けた後、そのまま旭川まで北上して別の花を届けるという、意味不明の荒行に挑んでいる兄を隣で見守った。

まさかトラックに乗せられ、配達の手伝いなんかさせられるんじゃないだろうな?
徐々に書店の仕事の面白さが分かって来てる所で、今更辞めてたまるか。
「運ぶんじゃなくて市場で荷役やってもらうだけだから、本屋の仕事終わってからでいい」
「あ、そうなの?」
「一日2、3時間だから楽勝だ。2ヶ月くらいの間でいいから」
「まあ、それくらいなら…」
「社長に交渉してバイト代1日固定ウン千円で手打ってもらったから。早く終わったらその分儲かるべや」
「マジか!」

「荷役」とは、兄たちが道内各地から札幌の中央市場に運んできた野菜の積み下ろしを手伝う仕事だった。
兄の会社で人員を割く余裕がなく、私にお鉢が回ってきたらしい。

作業は野菜が競りにかけられる前日の夜に行う。
市場は水・日が休みで、つまりその前日、火・土以外の週5日は出勤しなければならない。
ただ、「2ヶ月限定」「2、3時間トラックから野菜を下ろすだけで1日○千円」と兄が提示した条件は魅力的だった。
札幌に住む母の家に寄生していた私にとって、書店アルバイトの時給だけでは心もとない。
いい小遣い稼ぎになると思い、兄の依頼をまんまと了承した。
のが地獄の始まりだった。

数日後、18時に書店での仕事を終え、一度家に戻って飯を食ってから「札幌市中央卸売市場」に初出勤した。

道内の農産物、水産物が一挙に集まる場所だけあって、敷地面積はバカみたいに広い。
建物は青果棟と水産棟に分かれており、水産棟では大学卒業後に市場へ就職した長兄が働いている。

市場で働く長兄、トラックドライバーの次兄、そして書店員兼荷役の三男。
立場は違えど、利尻から出てきた兄弟3人が同じ場所で働くことに一瞬感動を覚えた。
一瞬だけだ。
不安のほうが大きい。

積み下ろし作業には、兄の会社の社長も参加した。
現場で落ち合うため、出勤して駐車場で待っていると、隣にハイエースが停まった。
おそらく社長の車だろう。
トラック運転手への勝手なイメージで、「どんな菅原文太だろう」とドキドキしていたが、降りてきたのは人の良さそうな60代半ばくらいの頭の薄いおっちゃんだった。
「工藤の弟です」
「あんたがおんちゃん(弟)か!頼むな!」
にっこり笑いかけてくれて、少しだけ緊張がほぐれた。

今日からしばらくは、十勝地方にある音更町木野の長ネギがメインらしい。「どのくらいの量が来るんスかね?」
「今日は500箱ぐらいだな」
「ご、ごひゃく!?」
「ピーク時は1000箱以上になるぞ」
「・・・」


話が違う。
というか、そもそも聞いていなかった。
途方に暮れている間もなく、兄のトラックが到着した。

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長ネギのサイズは2L・L・M・Sに分かれ、1箱の重量は5キロと定められている。
私の仕事は、社長と運転手の3人がかりで長ネギをトラックから下ろし、それを手でパレットに積み直した後、市場の指示書に従って所定の場所に運ぶことだった。

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パレットへの積み込み作業には工夫が要る。
なにしろ落として中の野菜が破損すると売り物にならなくなるから、箱の形状によって積み方を変えながら慎重におこなわねばならない。

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さらに運ばれてきた野菜は、すでに買い手がついているものと、翌朝の競りに向けて卸売場に保管されるものがある。
指示書には、「どこにどのサイズを何箱持ってけ」と細かく書かれていて、これを間違えると大変なことになる。
野菜の種類や行き先を頭に入れつつ、パレットごとに積み方を考えなければならない。
さらにこの長ネギの量だ。
一度に3、4箱持たなければいつまで経っても終わらない。

こうして脳と腰が悲鳴を上げる中、初日の作業が終わったころには深夜1時を回っていた。
気付いたら5時間も働いている。
話が違うパート2だ。

家に帰ってビール片手に2度目の晩飯をかきこみ、泥のように眠り、翌朝書店の仕事に向かう。
この生活が一週間ほど続いた。

当時、書店の同僚に気になる娘がいた。
退勤後、外のベンチに一緒に腰掛けて「ご飯でも行こうか」なんて口説いていたら、兄から電話が来た。
「ネギ、あと30分くらいで着くって。急いで」
その言葉をゆっくり咀嚼し飲み込んだ瞬間、私は彼女の隣でベソをかいた。男として絶対にやってはいけないことだ。
「ごめ゙ん…も゙うい゙かない゙と…」
ドン引きしているはずの彼女の顔をまともに見ることが出来ず、逃げるように次の職場へ向かった。

この日から、私は本気で考えることにした。
物量は自分ではどうにも出来ない。
要はこちら側の段取りの問題なのだ。
あらかじめどのくらいの量が来て、運ぶ先が何箇所あるかを把握し、そのためにパレットがどれくらい必要で、それをどこに用意しておけばいいか。
それまでは社長やドライバーの指示に従っていたが、今後は私が指揮をとらせてもらう。
私が現場監督だ。

トラックで野菜を運んでくるのは兄だけではない。
何人ものドライバーがいて、各々トラックへの野菜の積み方に癖があることも分かってきた。
運転席側からサイズごとに積んでくる几帳面なトラック野郎もいれば、何も考えずボンボコ積んでくるトラック野郎もいる。
その癖をプロファイリングし、徹底的に効率化を図った。
その甲斐あってか、少しずつではあるけれど作業時間は短縮されていった。ドライバーたちも、徐々に私をアテにしてくれるようになった。

地獄のように辛いのは私だけではない。
トラックドライバーは過酷だ。
毎日片道何百キロという道を運転し、農家で野菜を積み込み、同じ道を戻って市場へ運ぶ。
ただでさえ拘束時間が長く、天候や交通状況にも左右されるが、そんな激務の割に収入もそれほど良くない。

実際兄の同僚の中には、別の運送会社からより良い待遇を求めて今の会社に転職してきたドライバーもいた。
積み下ろしの段取りをしっかり組み立てておけば、自分だけではなく彼らが早く仕事を終えて帰れるようにもなる。
それに気付いた時、少しだけこの仕事が楽しいものに思えてきた。

夏が終わり、当初の予定である2ヶ月が経過したころ、兄が言った。
「秋から長芋始まるんだよね。それまで頼むわ」
話が違うパート3だ。
ただもうそんなことはどうでも良かった。
映画も大抵パート1が一番おもしろい。

長芋は1箱10キロ、1本1本は細いくせに、今まで持った野菜の中ではダントツに腰に来る重さだった。
しかし長芋のピークが終わるまで、私がこの仕事を続けられたのはドライバーたちの存在が大きい。

美深からキャベツ、レタス、白菜は、女性の話しかしないサンペーさん。
富良野のスイカは、顔が濃くてハリウッド俳優にしか見えないナカジさん。
穂別の長芋は、公衆便所では絶対に用が足せないイッチーさん。
トラックを廃車にしたせいでハイエースしか乗せてもらえなくなったシミズさん。
ほぼ父親世代のおっちゃんだったが、私を「おんちゃん」と呼んでアテにしてくれた。
ヘトヘトのはずなのに、いつも気さくに話かけてくれる、最高のトラック野郎たちだった。

市場に漂う空気と匂いも好きだった。

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長ネギのツンと来る匂いに、スイカやトマトの甘い香りが入り混じる卸売場には、常にトラックやフォークリフト、ターレーが行き交い、ドライバーや荷役の怒号が飛び交う。
多くの農産物がこの場所に集まり、積み下ろされ、また別の場所へと旅立っていく。
やがて全国各地のスーパーや飲食店に届き、私たちの目や胃袋を満足させる。

書店も同じだった。
生産者がいて、届ける者がいて、味わう者がいる。
流れの途中で荷を損なうことなく無事に届ける。
あの4ヶ月間が今の仕事に活きていると、確信を持って言える。

それから数年後、兄は運送会社を辞め、利尻に戻って漁師になった。
辞める直前、替わったばかりの新社長が、会社にあるトラックのフロント部分をすべて金色に塗装したらしい。
兄は社長のセンスを疑っていたが、私はその話を聞いて「悪くない」と思った。
街中で、金色に染まったトラックがあればすぐに気付くだろう。
その光景を想像するとなんだか嬉しかった。

1年ほど前、いつも通り書籍の納品トラックが到着したとの電話を受けた。
たまたま手が足りず、荷物を受け取るため地下2階にある業者用の駐車場へ向かった。

駐車場の数10メートル手前から目に飛び込んできたのは、フロント部分が金色に染まった4トントラックだった。
驚いて助手席のドアを確認すると、そこには確かに、兄が勤めていた運送会社の名前が書かれていた。
さすがにドライバーとは初対面だったが、もうずいぶん前から大手運送会社の委託を受けて、書籍を納品しているらしい。
一時期荷役をしていたことを伝えると、彼も驚いていた。
二人でしばらくトラックを眺めた。
「今の社長、センスねえって兄が言ってました」
「まあ、確かにちょっとな。でも離れてても目立つべさ」
「そうっすね、ほんとに」

私たちの仕事は、きっとどこかでつながっている。
今日も明日も、どこにいても。

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