ストーカーの話(創作)
室田の日課は様々だ。夜仕事が終わってからのジョギング、一日一冊の本を読む事……全てを周囲の人間に教えているわけではない。
その中にSNSを使った人間観察があった。
彼が観察している対象はネット上でマーというハンドルネームを使い、好きな映画の感想などをアップしている。小説はあまり読まないようだった。そのせいか語彙が乏しい。感想も本当に「どう思ったか」「面白いか」「つまらないか」程度だった。
この話を「他人から聞いた話」としてビールバーで知人にしてみた。
「ストーカーだな」
ストーカーとは失礼な、と室田は思った。
「知り合いがその人間を監視するようになったきっかけは?」
室田は話した。チャットで知り合い、話をしていたが一方的にブロックされた。チャットには所有している端末で入れなくなったが、別の端末で見る事ができる。名前を変えてチャットに入った。主要メンバーを失ったチャットは何も変わらず会話を楽しんでいてイライラしてきた、という。
「それは憎悪型のストーカーだ」
憎悪型、と室田はつぶやくように繰り返す。
「何かしら好意があって近づいた相手とトラブルやその他の要因から避けられる。その時、そいつの中では怒りと憎悪が一緒になって相手への負の感情がいっぱいになる。それで相手に嫌がらせをする。普通の人間なら避けられたり、疎遠になったりしたら「ああそっか」で終わりだろう。それは完璧にそいつがおかしい」
ふうん、と室田が言う。
「そいつ、どんな事するんだ?」
室田は話した。マーが嫌がるようなハンドルネームに変えたり、相手の発言にバッドボタンを押したりといった事だ。
知人は鼻で笑った。
「ガキだね。なんというか、中高年の男がいかにもやりそうな嫌がらせだな」
どういう事だ、と室田が言う。
「要するに、そいつは自分がこれだけ怒っている、悲しんでいる、という事を相手に知ってほしいわけだ。そうだろう?」
まあ、そうだな、と室田は返す。
「そいつがSNSとかネットを使い出したのはいつだ」
ネットはともかく、チャットやSNSを使い始めたのは四、五年前からだ。
「ほらな」
知人は我が意を得た、と言わんばかりの表情をした。
「ネットに使い慣れていない中高年がそういう風に罠にはまる事が多い。ネットに慣れている若い連中はブロックだの、ミュートだの日常茶飯事だから、対処法や自分を納得させる方法を知っている。だが、年寄りはそうじゃない。目の前に相手がいるみたいに行動するから失敗する。あと、自分の方が相手より歳上だと「俺を敬え!」みたいな心理にもなる。SNSなんて週に一回片目で見るぐらいがちょうどいいんだ」
マーは室田をブロックしたあと、チャットにこう書いていた。「自分はブルー(これは室田のハンドルネームだ)が以前から嫌いだった」とか「他SNSでも絡んで来て鬱陶しい。俺の投稿にいちいちリプライはつけるクセに自分の情報は一切発信しない。気味が悪い」
これが室田の逆鱗に触れた。
そもそもマーの方にも悪い点はあるのだ。
チャットにあげている映画の感想とSNSにアップしているものが同じものだとか……これじゃあ「特定してくれ」と言わんばかりだ。
いつだったかマーが「ライブチケットが当たった」と投稿しており、そこに住所が一緒に写っていた。すぐに削除されたが室田はそれをスクリーンショットで保存した。翌日、マーはアカウントに鍵をかけて投稿を表示できないようにした。
住所から、彼の暮らしている地域のホームページにアクセスした。地域の行事に映画のTシャツを着ている長身の男が写っているのを見つけた。それは以前彼がSNSにアップしていたTシャツの画像と同じだった。
見つけた、と室田の中で妙な高揚感があった。そこから彼のフェイスブックを特定するのに時間はかからなかった。
「そういう事する知り合いとは距離を置いた方がいい」
彼はそう言って立ち上がり、店員に「お勘定」と言った。
もう帰るのか、と室田が言うと彼は「妻がうるさくてね」と言った。自分の分を支払うと足早に店を出て行った。
室田はしばらく酒を飲んで家に帰った。
タワーマンションのほぼ頂上、というと人は羨ましそうな顔をする。若くて欲が皮を着て歩いているような女だとそれと知っていてこちらに色仕掛けをしてくる。昔は若い女の弾ける肌を心ゆくまで堪能したが、最近はマーを追いかける事に執心していてどうでもよくなっていた。
妻は一緒に暮らしているだけだ。たまに家に帰ってくるが、寝室から知らない若い男が裸で出てきて妻と手を繋いで風呂に入っていく、などというのは日常茶飯事。とっくに成人した子供たちは実家に寄りつこうともしない。報せは届いていないから生きていて事件の類は起こしていないのだろう。
マーに執着するのはこうした生活に一抹の寂しさを感じているから、なのかもしれない。フェイスブックには本名が公開されていた。真名幸輔。マナコウスケ。だからマーか。マナとは珍しい名字だ。東北にあるマナ工務店という会社、そこの長男らしい。いつか行ってみたいが遠い。それに仕事のスケジュールも合わない……。
マナ工務店のホームページを開く。明後日、関東の某リゾートに出張、とあった。マーと経営者がスーツを着ている写真がアップされている。
これは、と室田は思った。千載一遇のチャンスだ。神は俺の味方についた。
急な有給休暇を会社は許可してくれた。拒否されたらその日は病欠するつもりでいた。
高原のリゾートは整備されていて綺麗だった。自然との調和を謳っているが、それは人間の都合で、人間に触れやすいように自然を調節しているだけだ。
そのリゾートにはいくつもの会社が集まっていて交流会が開かれていた。
会場はTホテルの一角だった。
フリースペースもあって一般の参加者にも開放されていた。マナ工務店のスペースもあった。彼はそこに近づく。
一軒家を考えている、と室田は話しかけた。幸輔が笑顔で対応してくれる。どうぞ、と椅子を指す。
子供たちも独り立ちしたから老後は田舎で暮らしたいと思ってましてね……。
彼はそう言って青色のハンカチを取り出す。
それを見た瞬間、幸輔の顔が一瞬凍りつくのが見えた。瞬きするような一瞬だ。恐らくあの場でそれが何を意味するのかは自分だけが知っているだろう。
十五分ほど話を聞いて、その場を後にした。このあとはその辺を散歩しますよ、と言い残して会場を出る。
Tホテルを出て歩いて十分ほど行くと高台に出た。展望台になっている。下を見下ろし、ここから落ちたらひとたまりもないな、と彼は呟いた。
後ろに誰かが立つ気配があった。
「僕に用事があったんですよね」
室田は振り返らなかった。
「ネットの情報を見て来たんですよね。どうして僕に付きまとうんですか」
室田は黙っている。
眺めがとてもいい。紅葉シーズンは大勢の観光客で賑わうだろう。
「話さないなら僕から言いますよ。SNSは単なる交流ツールです。気に入らない人はブロックしたりミュートしたりしてもその人の自由なんですよ。チャットをブロックしたのはやりすぎだったと思っていますけど、もう関わらないでもらっていいですか。僕はあなたが以前から気持ち悪かった」
室田は何も話さない。
その内、後ろで人が立ち去る気配があった。足音が遠のいていく。
法的には何の問題もない。
彼が全てのSNSを公開にしているから自分はそこを見に行っているだけ。もし見られたくないのならアカウントを消して別人としてやり直せばいい。ま、無理だろうが。
室田は近くのベンチに座る。ポケットから煙草を取り出し口に咥える。それからライターで火をつけた。
しばらく、景色を眺めていた。
マーがSNSで何かアクションを起こすかもしれない。だがこちらのアカウントは鍵がついているし、把握しようがない。
元はと言えば、お前が悪いんだよ。
室田は思った。
俺は楽しくやりたかっただけ。それをお前が拒否した。それに天罰を与えているだけ。悪いのはお前。俺の怒りを買ったのはお前。全部お前のせい……。
彼は携帯灰皿で煙草の火を消し、吸い殻をその中に放り込んだ。そして立ち上がる。
・・・・・・
パトカーと救急車がやって来る。
何かあったのだろうか、と幸輔は思った。
「飛び降りだって」
誰かの会話が聞こえた。その途端、ドキン、とした。
「え、嘘」
「自殺?」
「わかっていないみたい。まあ、自殺の名所ではないから事故じゃないかな……」
社長である父親にマンションの前で止めてもらった。
「お疲れ。ゆっくり休んでな」
「うん、お父さんも」
手をあげると父親の車がゆっくり発進していく。
自分の部屋に入ると女物のヒールがあった。あれ、と幸輔は思った。
リビングに入ると「おかえり」とあかりが言った。
「出張が早めに終わって」
「そう」
ネクタイを緩める。
西野あかりとは五年の付き合いになる。大学時代に知り合ったのがきっかけだ。
あかりの顔を見ていると気持ちは別の意味で沈んだ。
最近、仕事の関係ですれ違ってばかりいた。身体の関係はもう半年もない。幸輔の方が拒否していた。早く一緒になりたいあかりと、まだ修行の身だからと結婚を先延ばしにしている幸輔。彼女は最初、色々とアプローチをかけてきていたが最近では諦めたようで何もしてこない。
あかりとは別れたくないが、時期尚早だと彼は思っていた。ただ、このままだとあかりはどこかに行ってしまうのではないか。
それでもいい、という気持ちが幸輔の中に居座っていた。
リビングのテレビにはニュースを映している。そこに映っている男を観て、幸輔は息を呑んだ。
あの男、室田って言うんだ。
その室田が崖から落ちて死んだ、という。
翌日、午前七時頃。チャイムが鳴った。
一睡もできず、頭がグラグラする。
ドアを開けるとスーツを着た男が二人立っていた。どちらも体格がよく、髪は短く切られていた。
「真名幸輔さんですね。警察の者です」
二人は警察手帳を見せてくる。
幸輔は目の前に立った刑事を見て「ああ、これは現実なんだ」と思った。
「室田信夫さんの件で何か知りませんか」
「いえ、特に……」
「これ」
彼はそう言って携帯端末の画面を見せてくる。
「あなたのSNSアカウントですよね」
確認する。
「確かにそうです」
「何かトラブルありました?」
彼はそこで出会いからその日、何が起きたかまだ全て話した。
「一方的に絡まれて、嫌だった、と……」
刑事の声は同情を寄せてくれていたが、目は冷徹だった。疑われている、というのは考えなくてもわかった。
「後日、警察署まで来て頂く事になるかもしれませんが、大丈夫ですか?」
はい、と答える。
二人は名刺を残していった。警察署の番号と刑事の名前が書かれていた。
彼らが去ったあと、呆然と立ち尽くす。
自分は何もしていない。
でも嫌な予感があった。どうしてあの日、自分があそこにいると調べる事ができたのか。
そう言えば一度だけ、SNSのフォロワーから奇妙な書き込みがあった。
「住所の類は載せちゃダメだよ」と。
だが彼には何の事かわからなかった。何かのいたずらか、間違いだろうと思いながら、気をつけます、とだけ返事したのだ。あとで投稿を振り返ったが、どこにも住所の類を連想させる投稿などなかった。このあとで一応、アカウントに鍵をかけた。そのあとまた解除したのだが。
ブルー……室田信夫の仲間がいつの間にかフォロワーにいるのだろうか。あるいは職場や、友人に……
「どうしたの」
あかりが後ろから声をかけてくる。
気づくとすぐそこにいた。彼は肩を震わせ、転びそうになった。それをあかりが抱き留める。
「だ、大丈夫?」
耳に吹きかかる彼女の声がくすぐったい。
「幸輔、何かあったの?」
場所をリビングに移した。
幸輔はブルーこと室田信夫の事を全て話した。
あかりは額に手を当てた。
「どうしてもっと早く相談してくれなかったの」
「その……」ここで彼は自分の本音に気づいた。
「あかりを巻き込みたくなかった」
結婚を先延ばしにしていたのは、みっともない自分を見せたくないから、だった。まだまだ未熟で、父に比べればダメな自分では、彼女を不幸にしてしまうかもしれない。大事な人だからこそ、一緒になるべきではない、彼女にはもっとふさわしい人がいる、と思っていた。
「あかりが好きだから」
「バカ」
あかりが言う。
「私はね、幸輔と真剣に未来の事考えてるの。最近静かだったけど、諦めてないからね」
その発言に思わず吹き出しそうになる。
・・・・・・
幸輔が警察から呼び出されたのはその日の午後だった。あかりが警察署まで彼を送った。
あのあと、久々に幸輔と寝た。
あかりは携帯を取り出し、保存しておいた彼のSNSのパスワードを削除する。バレてしまったら、その時はその時だ。何これ、とか言ってごまかせばいい。
チャット経由で幸輔に近づいた男の狙いは私だと思っていたが、どうやら違ったらしい。失敗した。殺さなかったらもう少し楽しめたかもしれないのに。
幸輔と出会う少し前、あかりは大学の先輩につきまとわれていた。ストーカーではない。その先輩は自分の正体に気づいていた。
昆虫にすればカマキリか何かだろう。
彼女自身、昔から誰かを壊してしまう特性に気づいていた。高校生の時、初めて付き合った男は男性教諭だったが彼が泣きながら懇願する姿が可愛くて愛らしくて、もっといじめたくなった。だからわざと無視して他の同級生と放課後キスしてやったら屋上から飛び降りて死んだ。遺書には「あいしてる 悲しいけど 理性がもたない」と書かれていた。
ちなみに放課後教室でキスした同級生は子犬のようにつきまとってくるから無理矢理犯されそうになったと証言して退学処分にさせた。彼はSNSに晒され、今も引きこもっているらしい。可哀想。イケメンだったのに。
この二人の件で彼女は調子に乗った。
大学生になった彼女はある先輩に狙いを定めた。向こうもその気で、すぐにデートにこぎ着けた。デートが終わりに近づいた時、耳元で囁かれた。
「「あいしてる 悲しいけど 理性がもたない」これ頭文字を抜き取ると人の名前になるんだよ。あ、か、り、ちゃん」
いつもは柔和な彼の目が、冷徹な氷に変貌した瞬間だった。
「あの人、俺の家庭教師やってくれた人でさ。憧れの先輩でね。何度もあの人と肌を重ねる事を考えたよ」
さて。この男を殺さなくてはならない。
あかりはその場から逃げ出し、駅に向かった。
ホームに急行電車が駆け込んでくる。彼女はそこに向かった。後ろから先輩が追いかけてくる。
彼女は転んだ。
そしてやって来た先輩の足に、自分の脛を引っかけた。
悲鳴と警笛に混ざって肉が砕ける音がした。
警察の事情聴取ではこう答えた。
彼に強引に迫られ、駅に逃げ込んだ。電車がやって来て逃げられる、そう思ったら急行だと気づいた。気づいたら転んでいて、身体を起こすと先輩が迫ってくるところだった。怖くて足を突き出したら彼がホームから飛び出した。
彼の葬儀には大勢の人間がやってきた。
人というのは感情の高ぶりを泣く事で表現する生き物だ。
大勢が泣く姿はなかなか見られない。号泣を約束する映画を上映している映画館でもだ。
離れたところで彼女はその光景を眺めていた。
彼女の肩を、誰かがそっと叩いた。
同じ大学の女性教授だった。
彼女は携帯を手にしていた。そこからは声が流れていた。
「「あいしてる 悲しいけど 理性がもたない」これ縦読みすると人の名前になるんだよ。あ、か、り、ちゃん」
彼女は悲しげに微笑んであかりを見た。
「幸福の追求は人類の欲求だけど、中には絶望と悪夢を追及する人もいるの。あなたみたいにね」
「警察に突き出しますか」
「まさか。全ては電車に潰されて粉々。警察に話したところで被害妄想を疑われて職をなくすだけ。――私もあなたと同じ種類でね。学内の男があなたの正体に気づいている。気をつけなさい」
それから二ヶ月ほどして、彼女は飲み会に誘われた。同じゼミの先輩が男の子を連れてきていた。気の優しそうな、そこそこ背の高い男の子。男の子の隣には強面の男が座っていて彼女の様子を横目でうかがっている。
なるほど、こいつか。
あかりは思った。この辺で一旦、手を打つことにしよう。
彼女は男の子の隣に座った。
こうして真名幸輔と出会った。
今でも強面の先輩は彼女と幸輔が暮らす家の周辺をまわっている。だからマンションの前で気持ちが盛り上がったふりをして幸輔に濃厚な接吻をおねだりした。幸福を享受している女になりすます必要があったからだ。彼がそれに応えたあとで彼女は気づいた。先輩の出勤時刻は数時間前ではないか。
警察の来訪で彼の気持ちは昂ぶっていた。性欲はうなぎのぼりだろう。それは彼女も同じだった。あの時、子供をねだったのは熱にうなされたような感情に背を押されたからだ。身体の隅々までなめ回すような優しい愛撫と、激しいピストン。普段の幸輔からは考えられない獣の咆哮とほとばしりを受け止めながら、なるほど、と思った。こういった一連の熱狂を人は愛と呼ぶのか、と。
それから思い出す。あの男を防犯カメラの死角に呼び出して突き落とした時の手の感触を。人を殺したあと、激しいセックスを求めるのは死ぬまで治らないだろう。そう言えば、あの男は一人の時、「お前やりすぎだぞ」と変な声で話していた。一人二役というやつだ。孤独だとあんな風に狂っていく人間もいるのか、と興味深くてしばらく眺めていた。
ハンドルに手を預け、顎を載せて幸輔が出てくるのを待つ。彼の帰りを待つ従順な若い女の完成だ。
一時間、いや、もう少しかかるか。帰ったら彼を誘惑して――いや、彼の様子だと自分からやって来るだろう。足の付け根をぬめり気が伝う感触がして、彼女は笑った。どうやら自分は思った以上に幸輔に本気らしい。
当分、離してあげないからね。
可愛い可愛い、私のお馬鹿さん。
了