作家のファンやめた話

 あれは二〇〇X年頃だったと記憶している。
 当時、俺は創作系専門学校の生徒で日々、映画や小説の課題に追われては提出し、休みとなると原稿だの課題だのに追われていた。
 成績としてはハッキリ言うと下から数えた方がいいレベルだった。
 こんなはずじゃなかったんだよなあ、と想いながら日々、映画や小説を漁る日々だった。
 そんな時、新人作家のとある小説を読んだ。これが面白かった。文字通り、自分の内側からむくむくと元気が湧き上がってくるのを感じた。
 そんなある日、授業で講師の方が、
「某大学でこの前本出したばかりの新人作家が講義をする。一般にも開放されるから希望者いたら見に来ないか。作家の話を生で聞けるチャンスだぞ」
 おお、と俺は思った。俺を感動させてくれたあの本の秘密に迫れるかもしれない。だがその日、俺は別の講義を取っていてそれを受けなくてはならなかった。
 三秒ほど迷った。
 同級生から、
「しんた君が取ってるあの先生さ、休んだ人には厳しいから気をつけた方がいいよ」
 と言われていた。
 だがよく話を聞くと、その先生が厳しいのは居眠りをしていたり、あからさまな形でサボったりする生徒に対して、だった。
 授業態度は悪くなかったので、俺は言い訳をでっち上げて書類を提出(授業をサボるためには休むための書類を書いておくといいという学校だった。ただし三回まで)、当日、某大学へと向かった。
 創作家と作品は別物である、とはよく言われるが、この日俺は「あれって嘘だろ」と思う事となった。
 当日、指定された時間。某大学の一室に現れた新人作家(推定二十代後半の女性)は、司会に紹介されるとちょっと気だるそうに教壇に向かった。
「お美しい……」
 とその大学に通っているであろう女子大生がぽつりと漏らした事を、何故か今日まで覚えている。
 さて、その作品はネット上での人とのコミュニケーションや、人と人が支え合って生きていく、という事をテーマにしていた。
 当時の俺は出す作品は全て酷評の嵐に晒され、クラスの優等生には首を傾げられ、荒んでいた。
 夜な夜な一人でコンビニに入って酒を買っては公園のベンチに座って飲み、ぶつくさと日常の不満を夜空に向かってぶちまけ、帰る頃には千鳥足、部屋の鍵を開けるのに五分ぐらいかかる、という奇怪な生態であった。よく警察に捕まらなかったものである。
 だが某大学に行く、と決意した時から酒を抜く事にした。その日は素面でいたかった。それだけ期待が大きかったのだ。
 何故か。この小説が面白かったからだ。
 恋人と別れたばかりの女性がある会社の新規事業である会員制のサポートにスカウトされ、その人から送られてくる悩みを解き明かしていく。その過程で彼女は自分の過去と向き合い、成長し、それが結実していく――。SNSと言えばmixiが出て来たばかりだったので、そういったサービスは珍しかったのだと思う。
 新人作家は「ダブル村上(村上春樹、村上龍の事)を読んだ事ない、太宰治も、芥川龍之介も読んだ事ない。ダメですね……」
 と自虐的に語っていた。
 俺は「いや、読んでなくてもあれが書けるってすごいと思う」と思っていた。

 講義が終わり、サイン会になるので本を買った人、もしくは持っている人で希望者は並んで下さい、とアナウンスがあった。
 せっかくの機会だし、と持ってきた著書を手に持ち、列に並んだ。
 自分の番が近づくと、作家と参列者の会話が聞こえてきた。
「この本面白かったんで友達にも読んでもらおうと思って薦めてるんですよ」
「買ってもらうとありがたい! 収益になるので!」
 商売上手である。
 自分の前に並んでいる男子学生には、
「(初回特典でついているステッカーを指差し)これ貼るとお金が貯まるから冷蔵庫とかに貼ってね」
 と語っている。面白い人なんだろう。
 自分の番が来た。本を差し出し、
「お名前は?」
「しんたです」
 彼女は俺の名前を復唱し、さらさらとサインを書いていく。それを受け取る。
「荒れてたんですけど、これ読んで元気出ました」
「……ふーん」
 ……あれ?
 今までの楽しさや、愛想の良さはどこに行ったんだろう。一人だけ南極並みの寒い環境に放り込まれた気分だった。
「あの、これからも」ここで俺はやってしまったのだ。「頑張って下さい」

 講義中、この作家が何と言ったか。
「私、頑張れ、って言葉嫌いなんですよね」

 作家は無表情で手を差し出し、俺の手を握った。温かかった。冷たい心の持ち主の肌は温かい、とどこかで聞いた。俺は速やかにその場から離脱した。
 どうやって大学から駅まで行ったのか、まるで覚えていない。友人に話そうにもどう話していいのかわからなかった。
 仮に言ったとしても、
「そりゃお前が悪い」
 と言われる可能性を十二分に秘めていたからだ。
 それからしばらく、微妙な気分で過ごした。

 二〇〇Y年、秋。
 彼女のデザインしたグッズ(手広く仕事されている方で服や画集も扱っていた)の販売会が某所で行われる、と公式サイトでアナウンスがあった。
 彼女のデザインしたTシャツがほしかったので自分はその日、某所に向かった。
 Tシャツを購入した自分は参列者の何人かと仲良くなり、色々な話をした。
 お目当てのTシャツを買えて満足だった。
 会場には座席が用意されていて用事を済ませた俺はそこに座った。
 前方の席ではその人が机に座って何やらデザインをしている。スルスル色々描くもんだな、すごいな、と思っていると、

「あのさ」
 その目がこちらを見た。
「さっきからこっち見てるけど、何しに来たの」

 え、である。

「いや、あの……服、いいなと思って買いに来たんですけど……」
 その人は、ち、と舌打ちして机に向き直った。
 どうやら見られる事で集中力が削られてしまったらしい。
 すみません、と謝って俺はその場を後にした。思えば某大学でのサイン会もこうだった。
 だが今回、件の作家はすごい剣幕だった。
 気づくと俺は駅にいて、やって来た電車に乗り込んだ。
 帰りの電車の中で真剣に考えた。
 自分はその人の作る物が好きなだけでその人本人のファンではない。例えば、その人の物を食べる時の食べ方が好きである、とか、生活スタイルなど欠片も興味がない。
 でも、二度の遭遇で、しかも顔見知りでもないのに(顔見知りであれば余計アウトだが)あの態度ってどうなんだろう。
 後日、友人にこの事を話した。X年の事も話すと、
「俺ならそいつの目の前で「返品していいっすか」って言うわ」
 と言われた。
 それで踏ん切りがついた。その作家の本はゴミの日に出した。ブックオフに出すのも癪だった。翌日が紙類の回収日だったので、ちょうどよかった。
 作家も人間だし、人間は気分や気持ち、環境に左右される。だから気分の浮き沈みがあるのは仕方ない。
 あの日以来、好きな作家がサイン会をしました、とSNSに投稿する度、あの時の事を思い出す。もちろん、あれ以降自分は誰のサイン会にも行っていない。行く気にならない。もし長年大ファンだった作家から「何しに来たの」なんて言われたら立ち直れない、そう思うからだ。
 自分が好きなのはその人の作品であって、作家本人には欠片も興味がない。そう思うようにした。
 今回、この記事を書くにあたってその作家の事を少し調べた(とは言ってもオフィシャルのサイトを覗いただけだ)。何冊かの本を出してそれ以降は出していないようだ。某邦画でアートが採用された……と書いていたから、それ以降もアート方面で活躍されているのだろう。
 あの頃は本名、年齢非公開でミステリアスな雰囲気で売り出していたが、今は年齢が公開されている。何の事はない、作家という看板を背負っていても、自分より年齢は五つ以上歳上で相応に歳は取っているのだ。その美貌から雑誌の表紙なんかも飾った事があるようだ。
 人というのは、完璧ではない。作家で人間の弱さや未熟さを描くのだから己の内面の未熟ささえもすくい取って作品に反映させていたのだろう。事実、サインをもらったあの本だけは今でも家の本棚に収まって時折開いている。
 でも、同時に俺は思い出すのだ。流石にあの一言は堪えたよなあ、と。たった一言の失言がファンを、人を、離れさせる原因になると今でも俺は肝に銘じている。もっとも当人はこの事を欠片も覚えていないだろうし、意識すらしていないだろう。
 それでいいかな、って少し思っている。覚えていられても迷惑だし、そこまで有名な作家でもないから、ほとんどの人は知らないだろうし。

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