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出産の記憶〜胎盤早期剥離でちょっと危うかった話~

先日、息子が4歳の誕生日を迎えた。

そろそろ誕生日というのが、どういう日なのかわかってきた彼。みんなに祝ってもらって、とっても良い気分の1日だったことだろう。

母親にとって、子どもの誕生日=出産した日であるわけで、やはり、特別な日だ。

そう。4年前のあの日、私は人生初の救急車で運ばれた。

出産はそれぞれに色々なエピソードがある。

みんなの出産エピソードを聞くのが私は好き。

またとない奇跡の瞬間のお話。車で移動中に破水しちゃったとか、そろそろ陣痛来たかもって病院行ったけど、まだだよって追い返されたとか・・・

自分の出産体験も記録に残しておこう。

思い起こせば、もう4年も前の事。

2020年6月。
時は、コロナ元年。

街中が賑わいを失い、人と人の接触を極力少なくする日々。私のせっかくの妊娠期間は、閉鎖的にならざるを得ないものとなっていたが、唯一のお腹の胎動に希望を抱いていた。

妊娠36週。

日曜の朝だった。

夫と2人きりでの朝ご飯も残りわずか。お味噌汁、納豆、をキッチンで準備していたその時、生理痛のような下腹部の痛みとともに、生温かい液体が脚元を流れる感覚。

げ。

あ。

ええーーー

足元が血まみれになっていた。

出血した。

とりあえず、夫を呼び、生理用のナプキンを持ってきてもらい、ショーツを履き替える。床を拭く。あわあわと動揺する夫。私もとりあえず、落ち着かなくちゃと自分に言い聞かせて、出産予定の病院へ連絡する。たぶん、午前、8時頃だったかな。

「今から来てください」と言われた。

でも、せっかく、お味噌汁作ったし、とりあえず食べよう。気持ちを落ち着かせるために、私たちは、朝ごはんを食べることにした。空腹を満たし、洗い物や、洗濯を夫に頼み、私は入院準備。きっとこのまま入院するであろう事は予想できていた。

いそいそと準備して夫と病院へ向かう。車で20分ぐらいの距離。

結局、出血してから病院に到着するまで1時間以上経っていた。

日曜日だったため、当直の先生が内診をしてくれた。

常位胎盤早期剥離

胎盤が剥がれ落ちた状態。このままだと、赤ちゃんに酸素が届かなく、赤ちゃんの命が危ない。早目に赤ちゃんを出してあげた方がよい。でもこの病院にはNICUがないため、もしもの事を考えて大きい病院に行った方がよい。今、救急車呼んでるから・・・と説明を受けながら、いろいろチューブをつなげられ、夫を呼ぶ。

当時、コロナ禍で、付き添い人は、病院に入る事が許されていなかったが、状況が状況であったため、車の中で待機していた夫を、先生が中に入るように促した。

そして、救急車到着。
さっきまで、歩いていたのに、絶対安静状態のため、救急隊員の方にストレッチャーに乗せられ、運ばれた。

夫は自家用車で救急車を追う。

初めての救急車。
ちょっとワクワクしてしまった。
自分の体に痛みもないし、苦しくもない。意識もハッキリしている。だけど、お腹のベビちゃんにとっては緊急事態なのである。がんばってねベビちゃん。

そして、県立の大きな病院へ到着。
到着した病院には、スタッフが数名待ち構えていて、医師や看護師が「担当の◯◯です。」と挨拶をして、手術の説明が始まった。

緊急の場合でも、説明しなくてはならないようで、同意書にサインを求められた。いや、ここまで来て、同意しないわけないでしょ。ストレッチャーに横たわった状態で、ヨロヨロの字でサインをした。

「帝王切開で、こうやって切って、赤ちゃん取り出すよ。がんばりましょう」と簡単なイラストとともに先生が説明して、手術が始まった。そこからは、あっという間に、お腹が切られて、あっという間に、おぎゃーという産声が聞こえた。

赤ちゃんは、2200g。とりあえず保育器に入る必要はなく、母子同室。←これがまた、結構ツラかったのですが…

そんなこんなで、予定日よりも1ヶ月早く出て来てしまった、フライング息子君は、いまやもう、身長100センチを超え、体重も約15kg。信じられないです。

私の最初で最後の出産の記憶は、おヘソの下の縦10センチほどの傷を残し、消えて行くのかな。。。


最後までお読みいただきありがとうございますm(_ _)m

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