『内外傷弁惑論』(弁寒熱2)
前回の弁寒熱の章の続きです。
前回の記事はこちら。
●現代語訳
内因による不足の病は、表に陽気がなく、風寒を防ぎきれなくなるものであり、これは常に起こりうるものである。一方で、腎のあたりに発する躁熱は、時々あらわれるもので、外感の寒邪にかかったときの寒熱とはほとんど似ていない。その(内因による不足による)悪風悪寒は、脾胃の不足によって(本来は上に行くべき)営気が下へ流れ、腎や肝に乗じたために起こったもので、これは「痿厥」や「気逆」に進んでいく徴候である。
もし、胃気が平常であれば、飲食が胃に入った後に栄気が上へ昇り、心肺をゆるやかに養い、上焦の皮膚を潤し、元気をよく整える。ところが、営気が下へ流れてしまうと、心肺が(栄養を)受け取れず、皮膚の間に陽気がなくなり、外からの栄衛による防御を失う。そうなると、皮毛に分布すべき陽気が虚弱になり、ちょっとした風や寒、あるいは日光が当たらない陰寒の場所にいるだけで、それを嫌がるようになる。これ(表虚による悪風寒)は常にあり、途切れることはない。ただし、風寒を避けて温暖な場所に行ったり、衣服を足したりして皮膚を温め養えば、そこで感じていた風寒への嫌悪感は消えてしまう。
ところが、(上記のような「常にある表虚による悪風寒」とは別の)この熱は、外感の寒邪による表の発熱ではない。腎が脾胃から流れ落ちた湿気によって塞がり、その下(下焦)が詰まって陰火が上へ衝き上げ、蒸されるように躁熱が起こるのだ。陰火は頭頂へ達し、皮毛にも広がるので、体全体が蒸されるように躁熱し、(熱がこもっている時は)大きく衣類をはだけて涼しい所に行くとすぐに収まるか、あるいは熱が最高に達して汗が出れば、やはりおさまる。これに対して、外感による悪寒と発熱では、どうして(発熱中に)汗が出ることがあろうか(=一般に外感では悪寒があるうちは発汗しにくい)。もし汗が出れば、外感の病は治るはずである。この違いで鑑別すれば、まさに黒白がはっきりとわかるくらい明らかではないだろうか。
内虚によって病を受ける場合は躁熱が起こる。あるいは、口から風寒の気を吸い込むことで陰火が鬱し、咽や膈を通らなくしてしまう。吸い込もうとする気(吸気)が膈上の沖脈の火によって拒まれ、陰気(体内に取り入れたい冷涼な気)が入ってこられずに、胸中の気が外の風寒によって遮断され、伸びることができなくなる。そのため人は目や口を大きく開き、まばたきをせずに見開き、極まると声を外に発し、気が上下に通らず咽中に詰まって、気が絶えそうになることがある。また、しゃっくり・嘔吐・吐血などがきっかけとなって躁熱が発する場合もあり、必ず何らかの原因があってはじめてこれらの症状が出る。するとまた、表虚によって悪風寒の症状が再びあらわれるのだ。表が虚弱であるために陰火に乗じられ、躁熱がしばらく起こった後すぐに消え、表が虚し陽がなく、風寒に耐えられなくなって(再び悪寒が)あらわれるのである。こうして表虚による無陽は常にあるが、躁熱は時々あらわれる。この二つ(表虚悪寒と陰火の躁熱)は同時にはあらわれず、躁熱が起これば寒がやみ、寒が起これば躁熱がやむ。外感のように寒熱が同時に起こって途切れることなく続くわけではない。すべての病において身熱がある場合は、肌熱とか皮膚間の熱ともいい、手を当てたり叩いたりしてはじめてわかるもので、これは身体にかたちをもってあらわれる熱である。これもまた、陰陽が調和して(最終的に)汗が出れば治るものである。ここで軽々しく(身熱=外感と)決めつけるのはよくない。虚証・実証、内と外、いずれの病でも起こりうるので見分けがつきにくいからだ。ただし、上に述べたように、患者自身が発熱と悪寒を自覚する「熱」と、ときおり生じる「躁熱」とを基準に見分ければよい、これを準則とせよ、ということである。
●原文
●陰火と寒熱
外感病のように脾胃の病でも悪寒や発熱が起こること。またその鑑別をのべている。「脾胃の不足によって(本来は上に行くべき)営気が下へ流れ、腎や肝に乗じたために起こったもの」というのは陰火と呼ばれ、李東垣の発見であるが、後代において論争が絶えない概念の一つである。営気が下へ流れ詰まるというのが具体的にどういう病理かは一考の余地があるが、この病理を解消するべく李東垣は柴胡や升麻など昇発の作用を持つ本草を多く用いて処方を作っている。