三越デパート
ときどき日本橋に行く。歩いて休みたくなったら、三越デパートに入り、天女像を見下ろす回廊に設置された椅子に座る。ここは、スーパーのフードコートのような喧騒はない。皆、静かに座って本を読んだり、スマホを操作したりしている。そんな風に東京の真ん中の老舗デパートに座り、ひとときを過ごす。贅沢なものだなと思う。買い物をしない私にも公平に休憩の場所を提供してくれる。流石は江戸時代から続く大店越後屋だなと思う。
陽気の良い季節には、屋上に出て、人工池を眺めながら、テラスの椅子でくつろぐ。人工林の緑や東京の青い空を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
日本橋地域の東側を隅田川が流れている。私は、その対岸の江東区の更に東にある江戸川区で育った。当時の人々の心情は、隅田川を越えると東京に行ったというものだった。近くには高層の建物がなく、小岩駅前のビルと言ってもせいぜい3階までの建築物だった。7階建てのデパートは、まさにに東京そのものだった。日本で最初の高層ビルである36階の霞が関ビルが昭和43年に完成するまでは、モダンな建物と言えば、自分の中では日本橋のデパートと丸の内ビルだった。
家族で日本橋に行く日には、よそいきに着替えた。よそいきは、普段着に対する言葉だが、どういう漢字を充てるのか、多分、余所行きなのだろう。外出着と外出着を着て出かけるの意味に使われていた。今では、余り使われないのも、皆がセンスの良い普段着を着るようになり、よそいきとの区別が縮まったからだろう。
とにかく、日本橋に出るということは、隅田川を渡り、おめかしをして出かけるということだった。行く所と言えば、三越デパートか日本橋の橋を渡った高島屋だったが、屋上に遊園地や緑地があり、総合レクレーション施設と言えるものだった。「今日は帝劇、明日は三越」という大正時代の評語で分かるように、富裕層の訪れる場所であり、そういうイメージが昭和になっても続いていた。
昼食は三越の大食堂でとった。チキンライスに日の丸が立っているお子様ランチは、三越発祥とされるが、食べた記憶はあるが、感激した記憶がない。
美味しかったのはカツライスだった。運ばれたばかりのカツライスから甘い香りがして、それほど厚くないカツが子どもには食べやすかった。
当時は、皆がライスを食べるときに左に持ったフォークを山の方を上にして、ナイフでライスを取り寄せて、フォークの上に乗せるという不思議な食べ方をしていた。真似してもライスがすぐに落ちて、極めて食べにくい作法だった。
しかも、ライスを少し残すという作法をする大人もいた。残すのは、不味いからではなく、満腹でもう食べられないという意思表示だと聞いていた。満腹なので、追加の馳走は要らないと訪問先の主人に伝えるためで、全部食べると足りないのではと気づかいさせるかららしい。食糧難の時代の発想で、それをレストランでも実践する人がいた。大食堂は、大人の世界の非合理性を学ぶ良い機会であった。
成人してから、フォーク・ナイフで食べるレストランで箸をくださいと言ったら、御婦人の店員さんが、「やはり日本人は箸がいいわよね」と、うれしそうに渡してくれた。
今、大食堂はどうなったかと館内を周り見ると、特別食堂というのが最上階にある。直営ではないようだ。何が特別か分からないが、値段は同等品の倍はする。多分、一生入れないだろう。
さらに階段を上がれば、屋上庭園があり、屋台風の店が並んでいる。デパ地下でお弁当を買って食べている人もいる。都会のオアシスという表現がふさわしい。
ネクタイや襟付きでなければ入れない飲食店とは違い、三越デパートは、万人に開かれた公平性、平等性を保ちながら、気品と高貴さを兼ね備えていて、荒々しい気持ちを穏やかにしてくれる。肩肘張らないで普段着で入れる上品な店、そんな場所だと、三越デパートのことを思っている。
お金を落とさないで、この伝統ある半公共的文化施設を謳歌している私は、店にとっては悪い客なのだろう。デパートは、決して成長企業だとは思えない。しかし、ここがスーパーのようになったら、間違いなく私の足は遠のくだろう。この半公共的文化施設がいつまでも健在てあることを願っている。
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