下総国分寺の宝塔―吉澤永弘師のこと
千葉県市川の国分の水汲み坂を登り切ると朱色の色鮮やかな天平様式の山門が現れた。これは下総国分寺の南大門として再建されたものである。国分山国分寺は、奈良時代の国分寺跡地にあって、長谷寺を本山とする真言宗豊山派の寺院である。境内を歩いていたら新しい3基の宝塔が目に入った。右側の塔には、永弘の名前が刻まれている。吉澤永弘師の墓だと知った。
話は、半世紀以上も昔の姉の思い出になる。
「永弘さんは、とてもやさしい人で、みな、だんなと呼んでいた。お孫さんといっしょによく、お寺の庭で遊んでくれた。門の左に大きな椿があって花が咲く頃はお孫さんと摘んで遊び、だんなは、側で見守っていた。花びらに糸を通して首飾りにしてくれた思い出がある。家の中ではお孫さんと一緒に遊んだ。だんなの膝の上に座ったりした」
と姉が幼児の頃に永弘師に可愛がってくれた思い出を話してくれた。当時、私たち家族は松戸の円能寺という寺に住んでいた。私は生まれたばかりなので、その寺の記憶はない。父母や姉から話を聞いているに過ぎないが、幼児だった姉はその頃のことを記憶していて、吉澤永弘師のことをよく覚えている。
吉澤永弘師は、父の仏門の師に当たる。父は10代で国分寺に入り、仏門に入った。得度した時に師から永の1字をもらい永良と改名した。師は、父の預かっていた円能寺にしばらく私たち家族といっしょに住んでいた。宝塔の銘文には昭和13年に円能寺に隠退したとあるので、ずいぶん長い間、同居していたことになる。円能寺は、師、祖母、父母等の大所帯だった。師が昭和27年に亡くなった時に、私たち家族は円能寺を去った。
宝塔の銘文を読んで、一度も会ったことのない師について父母から聞いていたことが頭の中を駆け回った。
「よく机に座り写経をしていた」(父)
物欲に乏しく、檀徒に対しては、貧富の差なく応じていた。「貧農の家が十銭のお布施しか出せない時にも同じ時間をかけて読経して帰ってきた。八カ寺あった末寺がいつの間にか無くなった。」(母)
市川に在住した川柳作家阪井久良伎が「住職吉澤永弘氏は風流の僧で、日本新聞時分から余を知つてゐて話が合ふ。快活恬淡禪僧に近い。」(『真間名所』)と記しているのと、イメージが重なる。
境内には、江戸川遭難者を弔う地蔵尊がある。大正6年(2年)5月に湯島小学校の生徒が国府台に遠足に行き、帰路、国府台下の栗市の渡しで舟に乗ったが、定員以上に乗船したため、途中転覆し、3名の生徒が溺死するという事故が起きた。永弘師は、生徒の菩提を弔うために三体の地蔵尊を造り、大正14年12月4日に国府台下の河川敷に奉祀したが、江戸川河川敷改修工事のため、昭和54年に地蔵尊を国分寺境内に移し祀ったという。
銘文を見ると、難しい密教の言葉が多く、理解するのに難儀する。永弘師は、明治22年12歳で国分寺の永豊師に弟子入りして、同23年13歳で四度加行の修行を終えて、同28年18歳で田端與楽寺で厳しい修行をして、金剛胎蔵両部の灌頂(頭から水を注ぐ)、守るべき戒律(具足戒)を授かり、様々な密教の奥義が伝授された。同32年22歳から住職として松戸西蓮寺、龍珠院、国分寺を預かった。昭和13年61歳で松戸円能寺に隠退し、昭和21年69歳で権大僧正になった。碑文には「昭和廿七年七月廿一日於國分寺示寂」とあるので、亡くなるときに国分寺に帰ったようだ。遺弟恒信とは、師の娘婿と聞いている。
吉澤永弘師は、御経を父にために写経してくれた。その文字を見て師の人柄を偲びたいと思う。
宝塔の銘文
「國分寺第六十世永弘権大僧正本吉澤氏
明治十年十月十七日東京田園調布町守神蜜定二男生誕後成吉澤彦左衛門養子
明治廿二年入下総國分寺永豊室
同年十一月廿一日剃度
同廿三年九月四度加行成満
同廿八年四月於東京田端與楽寺
隋大阿賢信浴両部密灌受具足戒尚拝雷斧正盛教純亮誉興澄等極各流奥義
昭和十六年於総本山長谷寺成両大会已講
是先明治丗二年松戸西蓮寺晋住次転龍珠院同四十二年転補國分寺
昭和十三年後事託法資恒信隠退圓能寺
此間丗余年寺門益栄檀信帰徳化
又龍珠院西蓮寺圓能寺燈明寺等兼摂教化普及
尚宗務支所役員宗会議員等歴任宗冶功亦大
昭和廿一年進権大僧正栄位為宗門地方頭領
昭和廿七年七月廿一日於國分寺示寂
遺弟恒信当七回忌法要勤修建立五輪宝塔報師恩
昭和三十四年十月二十一日
大僧正慶信選書
昭和丗四年十月廿一日
遺弟恒信建之」