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出前と行商の思い出

蕎麦を自転車で配達する姿を見た。昔ながらに肩に蕎麦を高く積み上げて自転車を走らせている。こんな昭和の光景が令和の今、東京の東端で見られるとは予想外だった。

昔は出前が当たり前だった。蕎麦屋、ラーメン屋、鰻屋、寿司屋など、みんな出前をしてくれた。食べ物だけでなく、洗濯屋も家に洗濯物を取りに来ていた。医者の往診も当たり前だった。医者が夜に来てくれることもあった。かかりつけ医だった玉置医院は、「昨夜、お寄りしましたが、お休みのようでしたから帰りました」と言っていた。今では考えられないことである。共通していえることは皆個人事業者だということである。不思議なことに高度経済成長とともに出前が少なくなった。生活が豊かになり、家族そろって外食するようになった。ファミリーレストランや回転寿司等の外食産業が起こり、個人事業者が圧迫されてきた。その他にもいくつか理由があるのだろう。現在は、宅配専門企業が流行っているが、かつての出前のようであり、また否なるもののようにも思われる。

昭和の子どもの頃の思い出として、行商がある。千葉県の幕張から佃煮・乾物を入れた竹籠を背負って、月に2、3回、絣模様の野良着を着た婦人がわが家に来ていた。玄関のかまちに座り、佃煮を少しばかり売ると後は母としばらく世間話をして帰って行った。行商の婦人たちは電車内でも見かけた。4、5人の小グループだった。それぞれお得意先があるのだろう。昼時には、窓の方を向いて正座し、アルミの弁当箱を取り出して食べていた。

富山の薬売りも来ていた。年一回やって来て、薬のセットが入っている赤い箱を一覧表を見ながら点検して、使われた薬を注ぎ足し、代金を受け取る。子どもがいると紙風船をふくらませて渡してくれた。行商の婦人程には世間話に花が咲くことはなかったようだが、母は薬売りがどこに寝泊まりしてるのかが関心があったようで、駅の向こう側に行商専用の宿があるということを聞き出していた。

行商も薬売りも東京オリンピックの頃を節目にわが家に来なくなった。1964年はスポーツの祭典だけでなく、社会の変革期だったようだ。いつの間にか知らない間に変わっている。そんな沈黙の変革の時代だったのだと、振り返るとそう思える。


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