身近になったコロナ感染に思う
「来年の見通しも見えないということですが、変異株とワクチン開発の戦いはずっと続くのでしょうか。生き残ったコロナウイルスは感染力は強いが弱毒性で宿主を軽症にしておくということが進化論的に理解しやすいですが、はたしてどういう展開になるのか、こんなことがわかる世界に生きていられる幸運に感謝しつつ、再会を祈りたいと思います。」
これは、コロナがまだ猛威をふるっていた2021年の夏7月24日に友人たちに出したメールの一部である。
2023年の現在、流行っているコロナの変異株は、この春にアメリカで流行したXBB型だそうである。この数ヶ月で身近にいる人たちが、次々と感染している。6月に友人が、7月に友人と子どもが、8月に子どもの配偶者が感染した。皆、どこで感染したかわからないらしい。「マスクをしていたのに、ワクチンを打ったのに」と言っていた。発熱や咳の症状だったが、幸い重症化しないで回復している。中には発熱しないが咳が出るので、かかりつけ医を受診したら陽性だった人もいた。昨年までの状況と異なり、誰がいつ感染してもおかしくない状況と感じている。
素人の考えだが、ウィルスが感染力は強いが弱毒化したように思える。発熱がなくて咳だけなら医療機関を受診しない人が多いだろう。隠れた感染者の存在は、ウィルスにとってまことに好都合で感染の機会を増やす、即ち繁殖しやすい条件が満たされていることになる。一昨年「生き残ったコロナウイルスは感染力は強いが弱毒性で宿主を軽症にしておくということが進化論的に理解しやすい」と言ったことを思い出した。確かに感染者は軽症の方が行動制限をしないため、隔離状態にある重症者より感染させる機会は多い。自然とウィルスは弱毒化の道を辿ることが考えられるのだが、余りに絵に書いたようなシンプルすぎる事態に、自分自身が驚いている。
それでも感染症の本質は変わっていないと思う。互いに移し合う。助かる多くの人に対して、医療従事者の努力によっても助からない人がいる。ウィルスを鉄砲の弾に例えれば、当たる人と当たらない人がいて、当たりやすい人と当たりにくい人がいる。当たりどころが悪く重症化する人もいる。コロナへの考え方が分極化しているようにも思える。なかなか安心できない人、気がかりだが動き回わらざるを得ないで気にしていられない人、まるでコロナは存在しないかのように動いている人、安全とリスクの間を揺れ動く振り子のような人もいるだろう。「生まれて初めての体験だな」と言った人がいたが、今まで、何度も風邪をひいたり、インフルエンザにかかったこともあるが、コロナウィルスのおかげで、生まれて初めてウィルスに出会い、それに向き合った気がする。
ウィルスも繁栄するために必死だと思える。ウィルスは何故ウィルスのまま進化しないのか。それともウィルスから新たな生命が生まれているのか。全生命の中でウィルスはどんな役割を果たしているのか。人類の人口調整だけの役割だったとしたら、それは余りに寂しい。本当は、全ての生命体にとって有意義な存在だったら良いのになと、そんなことはあるはずがないと思いながらも思いたくなる。