万葉の歌 富士の柴原
富士山も、遠方の人にとって美しい山だが、そこに住む人にとっては全く別の思いがするようだ。万葉集の駿河国の東歌に富士の裾野の広さを歌ったものがある。
天の原富士の柴原木の暗の時移りなばあはずかもあらむ(巻14-3355)
富士の山麓に柴がしげれる広大な裾野が広かっていた。鬱蒼とした森の中は薄暗い。愛する人のもとに行くのも大変だった。まごまごしていると夕暮れが深くなって、会いに行くことができなくなる。そんな万葉人の気持ちを歌っている。そこには優雅な富士の姿はない。そこにあるのは、愛する人との間を隔てる広大な富士の裾野である。
富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がり訪へばけによばず来ぬ(巻14-3356)
富士の裾野の遠く長い山路の先に愛しい人の家がある。婿通婚の時代である。男たちは、遠くにいる女性のもとを訪ねて行くのだが、愛しい人に会いたい気持ちに満たされて、遠い山道も苦にせずに訪ねて行く。「けによばず来ぬ」の意味は分からないのだが、ネットを見ると「息も切らさず来たよ」に、「一日もかけずに来たよ」と意訳している。会いたい気持ちがいっぱいで、長い山道も苦しまずに来たということなのだろう。
富士の歌というと山部赤人が歌った、「田児の浦ゆうち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりけり」を思うが、そういう都人が見る風光明媚な富士と地元の人の生活の中で思う富士は全く違うことが分かる。富士山麓に住む男女の間には、東歌に見るような広大な原野が広がっていた。
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