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正丸峠 加藤の伯母

昔、埼玉県の鶴ヶ島の加藤の伯母の家に泊まった。夕食にはニンジン、シイタケ、こんにゃくなどの煮しめ物を、私のために作ってくれた。食事をしながら、伯母が正丸峠は景色がよいから行くとよいと勧めてくれた。幾重にも山の稜線が重なり合い、いつまで見ていても飽きないと言う。山が好きな従兄が「そんなにいつまでも見ていたら飽きちゃうよ」と笑いながら言ったが、伯母はいい景色だといい続けていた。

その晩は二階の部屋で、蒸し暑い夏の夜を過ごした。朝起きたら伯母が「暑かったでしょう。木造の家は二階は暑いのよ」と言った。

翌日、伯母の言葉に引かれるように正丸峠を目指した。西武線の正丸駅で降りてしばらく歩いて行くと峠に着いた。幾重にも重なりあう山並みの美しさは、伯母の言葉通りだった。いつまで見ていても見飽きなかった。伯母が私に見せたいという気持ちがよくわかった。

伯母はとうにいない。正丸峠にもそれから行ってない。正丸峠は私の住まいから決して遠いとは言えない。しかし人生の中で機会というものは意外と少ないものだ。一度限りの正丸峠、その山並みの七重八重に重なる風景も遠い遠い昔の記憶になってしまった。

2023.3.16


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