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万葉の歌 桜田へ鶴鳴き渡る

作良田(さくらだ)へ鶴鳴き渡る 年魚市(あゆち)潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)
作者高市黒人は、持統上皇・文武天皇期の官僚歌人で持統上皇の三河国行幸(702年)に従っている。

和歌だけ読めば、「桜田の方に鶴が鳴いて渡っていくよ 年魚市潟の潮が引いたみたいだ 鶴が鳴いて渡っていくよ」という意味だが、桜田と年魚市潟のふたつの地名と作者の位置関係が分かりにくいので、少し考えてみたい。

当時尾張の国に愛知郡があり、日本書紀に吾湯市・年魚市 、万葉集に年魚市・年魚道とある。郡の下に郷があり、そのひとつに作良(さくら)郷があった。当時は今より海岸が内陸部に入り込んでいて、年魚市潟は、名古屋市の南側にあった干潟であり、当時熱田神宮の南側には広い海岸が広がっていた。

年魚市潟は、愛知郡の名を冠する大きな干潟であり、それに比べて桜田は小さな地域である。サクラという地名は、谷間の小平地を意味するというが、まだ大河川付近の平野の治水は困難で、稲作が山間部の谷間から始まったことを思えば、桜田とは谷間の水田を言うのだろう。
日本列島「地名」をゆく!:ジャパンナレッジ 第117回 「サクラ」の話 (japanknowledge.com)

名古屋市熱田区桜田町があり、また名古屋市南区に元桜田町、桜本町、名鉄名古屋本線桜駅、桜神明社、桜台中学校などがあるが、南区のこのあたりが作良郷の跡とされる。熱田神宮の東南方向に当たる。
作良郷(さくらごう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

高市黒人は、年魚市潟から離れた干満が分からないような場所に立って、また桜田の方向を指示できる程度に桜田から離れた場所にいる。そういう場所から鶴が桜田の方(その先の年魚市潟)に飛んで行くのを見ている。そして年魚市潟の潮が引いたらしいと推測している。高市黒人は、「鶴鳴き渡る、鶴鳴き渡る」と二度歌っており、去り行くものに情感をこめて歌う歌人のようである。あらためて和歌を詠んでみたい。

桜田へ鶴鳴き渡る 年魚市(あゆち)潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)


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