子鹿物語
講談社の絵本で『子鹿物語』というのが、実家の本棚にあるはずなので、探して持って帰った。題名は、『講談社の絵本 子じか物語』(©1956)だった。
小学校に上る前に父親が買ってくれたが、絵が美しかった。カタカナに不慣れな私は、主人公のジョディを読めず、また、ジョディという初めて耳にする名前が言いづらかったので、父親がひらがなをふってくれた。今開いて見てみるとたしかにひらがなが書かれていた。保存や記録への感動というのはこういうものなのだろう。
『子鹿物語』の原題は『イヤリング』と言い、一年子という意味だと絵本の奥書で読んだ記憶があるが、はたして絵本に奥書があるものだろうか。興味津々、おそるおそるその箇所を見てみたら、前書きに書いてあった。
グレゴリー・ペックが父親役で出ている映画『子鹿物語』(1947)を小学校高学年の頃にテレビで見たが、フロリダの風景が絵本に描かれた風景を思わせた。ジョディが小川の岸辺に横たわり、手作り水車を刺して、見つめる場面、友だちの埋葬シーン、母親が子鹿を撃った場面、小舟を漕ぐ夕闇の風景などが、絵本で見た記憶と重なった。
『子鹿物語』(マージョリー・キナン・ローリングズ、1938)は、少年と動物のふれあいを描いたものだが、決して単純な動物愛護物語ではなく、幼児の私には分かりにくいものだった。成長するにつれて畑を荒らすようになる子鹿を殺さなくてはならないこと、母親が子鹿を銃殺した後にジョディが家出すること、放浪の後にわが家に帰ってくることなど、幼児には物語の大事な箇所が難しくて、意味がわからなかったが、どうしてなのだろうということが強く心に残った絵本だった。
過酷な大自然の中でも人間は生きなければならない。過酷な環境で生きることが物語のテーマである。
ジョディの友だちは数キロ先の隣家にいる。そういう寂しさを紛らわすために、子鹿を飼うようになるが、その子鹿が一家の生活を脅かす存在となる。柵を高くして畑に入らないようにしても子鹿は飛び越えて、若芽を食べてしまう。ジョディは、子鹿が殺された悲しみと怒りに耐えきれずに家を飛び出して、放浪するが、そこで生きることの厳しさを知る。学び、成長してジョディは、父母の居る家に帰る。絵本では不可解のままだったことが、数年を経て、映画を見て、少し分かった気がした。振り返れば、『子鹿物語』は、自分自身の成長の思い出でもある。
数年前に文庫で読んだ『子鹿物語』には、舞台となったフロリダの場所が詳細に書かれていた。フォレスター家は、ジョディのバクスター家の開拓地から4マイル西、バクスター家は背の高い大王松で囲まれていて、100エーカーの広さで島のように見える。肥沃だが、水源が遠い。シルバーグレンは、ジョディが水車で遊んだ場所。ヴォルーシャの町は、バクスター開拓地から東に16マイル、セントジョンズ川辺にある。メモ書きには、バクスター家は、子どもはジョディだけだが、多くの乳幼児を失ったとあった。厳しい生活環境を思わざるを得ない。時代背景は、南北戦争直後であるが、150年程前のアメリカにはフロンティアが広がり、斧と鋤で荒野を切り開く生活があった。
『子鹿物語』は、『講談社の絵本 子じか物語』(©1956)を幼年の時に読み、映画『子鹿物語』(1947)を少年の時に見て、『仔鹿物語』(上下)(土屋京子訳)を大人になって読んだ。まさに思い出の児童文学である(タイトル写真)。
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