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信号待ちの外国人

車道の信号が赤に変わったら歩道者の信号も青に変わると思ってか、前にいる外国の女性が足を踏み出そうとしたが、青に変わらないので、あわてて身を引いて、オーと言うような素振りをした。

三本の道路が交差しているため、なかなか信号が青に変わらない。傍にいる子どもに「なかなか青にならないね」と言ったら、その女性が、自分への言葉だと思ったのか、振り向いて、「(私は)早く出てしまいました」と流暢な日本語で話してきた。「つい、つられてしまいますよね」と言うと「ゴメンナサイ」終始、にこやかな笑顔である。「日本語が上手ですが、何年位日本にいるんですか」と聞くと、「30年位」とのこと。

この一瞬の出来事に異国の地で暮らす人のコミュニケーション能力の高さを感じ、それと共に日本人との違いを考えてしまう。

民族が行き交う地に住めば、様々な軋轢が生じる。文化風習の違いから誤解が生まれ、トラブルに発展することもある。それを防ぐには笑顔と巧みな会話しかない。それは、人々が激しく移動する地域では円滑な社会を維持するための有効な手段だったに違いない。そこに住む人たちは、自然とコミュニケーション能力が高くなるだろう。防衛のためには理路整然と主張しなければならないが、人間関係から生じる軋轢を避けるにはユーモアや笑顔が必要だ。

それに比べて、日本のような同じ言語や文化を持つ国に住んでいると、言葉を発しなくてもすんでしまうことが多い。むしろ反対に「沈黙は金」と言われ、以心伝心のように多くを語らなくても意思が通じあうことが理想とされる。能弁よりは寡黙が美徳とされてきた。桃李不言下自成蹊(桃李もの言わざれども下自ずから道をなす)は、聖人君子の理想像とされてきた。「巧言令色鮮し仁」 に素直に頷けるのも、やはり古来からの心を引き継いでいるからだろう。

生まれたときから、何の疑問を持たずに純粋に笑顔と巧みな言葉使いが身について、そのままの姿で人の世の荒波を生きて行けるのなら、それ以上のことはないのだろうが、私のように伝統的な心に浴した者は、笑顔で人に接すれば、処世のひとつかと疑念を持ち、そこに道化的な仕草を添えてしまう。そして、朴訥とした話し方に美徳を感じてしまう。

近代化以後、この島国も海外と付き合わなくてはならなくなり、国際競争力を身につける必要性が出てきたので、今では「沈黙は金」とばかり言ってはいられない。やはり外国人には、はっきり自分の考えを言う人が受けが良いようで、臆することのない度胸と円滑な関係をつくるための愛嬌が必要な能力になっている。東洋的な君子像では国際社会に生きては行けないようだ。国際的なもののあり方が変われば、国内的な場面でも変わっていく。文明開化の時に「和魂洋才」で日本文化と西欧文明との折り合いをつけてきたが、その和魂の魂も変っていかざるを得ない時代なのだろう。






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