千葉県市川市に移動した古代の石を見に行く 平川の鏡石と明戸古墳石棺の蓋
1 市川の鏡石
千葉県市川市は、古代から人々が住み、繁栄してきたところ。堀之内貝塚や須和田遺跡などの縄文・弥生遺跡、国府台の法皇塚古墳、下総国衙跡、下総国分寺と歴史的遺跡が多い。今回は、市川の歴史とともに歩んできた鏡石の話である。鏡石は、国分寺に行く途中の平川の橋のそばにあったと言われ、『江戸名所図会』に次のように記述されている。
鏡石
弘法寺から国分寺に行く方の田畔、石橋の際の水中にあり、この石根地中に入る事その際をしらず、故に一に要石とも号くといへり、(土人、この石橋は国府台にある所の石棺の蓋なる由云ひ伝ふ。)按ずるに国分寺古伽藍の石材なるべし
平川は今は暗渠となっていて橋はない。弘法寺から持国坂を下る道と、須和田公園から郭沫若記念館を経て国分寺に行く道とが交差する先に平川の跡がある。そこにはかつて石橋があり、水中に鏡石があった。数種の石が記述されていて、鏡石、石橋、石根、要石とあって、分かりにくいが、余計に興味が湧いてくる。石橋は国府台石棺の蓋だったのは明瞭で、また鏡石が国分寺古伽藍の石材だったとあるので、寺院の礎に使われたのだろう。鏡石、石根、要石の関係はどうなっているのだう。
先ずは、鏡石が京成真間駅構内にあるというので、見に行った。改札口の駅員に鏡石のある場所を尋ねたら、改札を入って探していいよと云う。親切な駅員さんだ。失礼して、改札を通過。ホームを探したが、今週降った大雪のせいで、なかなか見つからず、やっと上りホームの南側の道路際にあるのを見つけた。大雪が石をほとんど被い隠していた。駅員に見つかったと礼を言うと向こうもにっこり。こういう親切に心がほぐれる。
雪解けの頃に再び見に行った。今度は道路から構内を見たら、雪も解けてはっきりと鏡石を見ることができた。近くに説明板があり、要領よく鏡石のことが書かれていた。
もともと鏡石は、豊穣を願う農民信仰の石で、男女二つの性器を象った夫婦石の片割れであり、『江戸名所図会』に書かれた石根と一体のものである。かつて田植えや稲刈りの時期に村人が集まって、豊作や収穫感謝の祭が行われた。鏡石の名は、くぼみに水をたたえれば鏡のごとく映し出すからであろう。動かしてはいけないことから要石とも呼ばれ、または夫婦の仲は不動であるべしとの意味でもある。この不動でなければいけない鏡石が、今は京成真間駅構内にある。
実は、この夫婦石は、以前に読んだ市川に関する郷土本(『市川歴史探訪-下総国府の周辺-』千之野原靖方著)によると、平川が暗渠になった後にあちこちに転々として、弘法寺下の石屋に、また鏡石の方が京成真間駅構内にそれぞれ別々に置かれた。鏡石は、高架工事の際に行方知れずになり、現在の鏡石は二世である(『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』市川市教育委員会)。二世とあるので、レプリカではなく、もとの鏡石に形が似た石なのだろう。
夫婦石の移動の足跡を辿れば、国分寺伽藍の礎→平川の石橋際に置かれた夫婦石(農民の豊穣信仰)→平川暗渠→それぞれ弘法寺下の石屋と京成真間駅構内に移動→鏡石は高架工事で行方不明→二世のごとく変遷した。時代の移り変わりとともに役割を変えて推移してきたと云える。そこには往時の仏教寺院の繁栄があり、五穀豊穣・子孫繁栄を祈る農民信仰があり、そして近代化による農民の信仰心の消滅と石の散逸があった。鏡石の移動を思うと、石たちが人間の手に運命を委ねて移り行く姿に興味がつきない。
(参考文献)
『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』(市川市教育委員会)
『市川歴史探訪-下総国府の周辺-』千之野原靖方著
2 市川の明戸古墳石棺の蓋
市川の国府台に二基の石棺がむき出しになった明戸(アケド)古墳という6世紀後半の前方後円墳がある。今では二基とも蓋がなくなっている。18世紀初頭の『江戸名所図会』によると、当時すでに石棺が出土した状態だったことがわかる。
【資料】『江戸名所図会』 国府台古戦場
石櫃二座(同所にあり。寺僧伝へ云う、古墳二双の中、北によるものを里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたり。とて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。)
按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするはいずれも誤りなるべし。
『江戸名所図会』掲載の国府台の「其の二古戦場」図には、「石ひつ」の石が散在し、三碑らしき石の所に「夜なき石」の表記がある。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/959919/1/252
国立国会図書館所蔵デジタル化資料
これによると『江戸名所図会』が出版された天保年間(19世紀初頭)に石棺は出土していたことが分かる。筆者斎藤月岑が、明戸古墳の石棺を上世(上代)の墓と認識していることに近代的な理性を感じる。また総寧寺の僧の間で、里見弘次と正木内膳の戦死が代々語り継がれ、伝承として残っていることは興味深い。
史実をたどれば、里見弘次と正木大膳信茂は、北条氏と里見氏の間で起きた第二次国府台合戦(永禄7(1564)年)で討ち死にした年若き武将(里見弘次は当主里見義弘の甥、正木信茂は義弘の妹婿)であった。明戸古墳の近くに里見弘次と里見諸将の慰霊碑3柱と夜泣き石がある。伝説によると、弘次の霊を弔うために十二、三歳になる姫が安房よりやってきたが、戦場の凄まじい光景に姫は傍らにあった石にもたれて夜通し泣い続けて、ついに息絶え、その後もその石は夜になると泣き続けたという。それ故に夜泣き石と言われる。明戸古墳の石棺の蓋が夜泣き石の台座に使われて現存している。ただし、平川にあった石橋は行方知れずである。これがあれば石棺2基の蓋2枚が揃うことになる。
古代に貴人を葬った古墳は遠の昔に威光を失い、その石棺の蓋が夜泣き石の台座に使われている。古代の支配者の死への畏怖はなくなり、16世紀の武将の死が土地の人びとに衝撃的な記憶として残った。時代の移り変わりとともに人の心が変化して行くことに感慨深いものがある。
2023.1.14