敬老の日の起源
敬老の日の起源と書いたが、知っていることは、9月18日(月)が敬老の日で、制定当初は、9月15日だったことだけである。
祝日法では、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という趣旨であるが、9月15日ではなく、今は第2月曜日に変わっている。
老人福祉法では、9月15日を「老人の日」に、その日から9月21日までを「老人週間」とすることが決められている。国民に老人福祉への関心と理解を深めるとともに、老人が自らの生活の向上に努める意欲を促すことがその趣旨で、それにふさわしい行事が老人福祉団体等で開催されている。
さて、敬老の日の起源は、1947年9月15日に兵庫県多可郡野間谷村主催の敬老会が開催され、食事や播州歌舞伎が提供されたことにあるとされている。9月15日については、岐阜県の「養老の滝」伝説も参考にしたらしい。
では、それ以前に、敬老の日の行事はあったのだろうか。
『続日本紀』を見ると、霊亀3年9月20日に元正天皇が美濃国當耆郡多度山に行幸して、美泉を見、11月に詔して、美泉により皮膚が滑らかになり、痛い箇所を洗うと痛みが除かれたと天皇自らの体験を語り、美泉で「老を養う」べし、美泉は大瑞であると言い、大赦を行い、年号を霊亀から養老に改元した。官吏80歳以上の老人には位一階を与え、布などを与えている。これを読むと美泉は温泉のようにも思えるが、養老の滝や湧き水の諸説がある。美泉は老を養うものではあるが、これにより、敬老の行事が行われたという事実はないので、敬老の日の起源とするには覚束ない。
第51回衆議院本会議(昭和41年4月15日)で安井謙国務大臣は、祝日法を改正して、敬老の日を祝日とすることについて、次のように説明しているが、9月15日の根拠について、終戦以前には言及していない。
「この日を九月十五日といたしましたのは、昭和二十六年以来十数年にわたり『としよりの日』として全国各地においてその趣旨にふさわしい行事が行なわれており、また、昭和三十八年に制定されました老人福祉法において『老人の日』として九月十五日が定められていることなどによって、この日が広く国民の間に浸透しておるからでございます」
9月15日は、旧暦の望月(満月)の日である。旧1月15日は、小正月、この日まで松の内。望月を月初めとした風習の名残りという説がある。旧2月15日は、「如月の望月の頃」という西行の歌を思い出す。旧7月15日は、お盆、祖先の霊を供養する日。旧8月15日は、まさに十五夜、中秋の名月。旧11月15日は、七五三、子どもの成長に感謝する日。15日は日本人にはなじみやすい日と思える。なお、11月は、収穫を終えて、神に感謝する月でもある。
9月の伝統的行事としては、9月9日の重陽の節句(菊の節句)がある。1月1日(新年)、3月3日(桃の節句、ひな祭り)、5月5日(端午の節句、菖蒲の節句)7月7日(笹竹の節句、七夕)といった季節の変わり目に行われてきた行事のひとつで、各季節の旬を食べて、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄を願う日である。無病息災(寿)、五穀豊穣(禄)、子孫繁栄(福)を願うことは、すなわち自分たち自身が自分たちのための福禄寿を願うという国民的な伝統行事である。明治国家以来、国家行事的な祝日が多くなったが、民衆の伝統行事の中で祝日に制定されているのは、正月とこどもの日(端午の節句)である。祝日が国家的な行事と庶民的な行事の組み合わせからできているということは、どこの国でも変わらないことなのだろう。では何故、敬老の日が重陽の節句9月9日ではなかったのか。
敬老の日が何故9月15日だったのか。
先ず、何故9月なのか。美濃国美泉(養老の滝云々)への元正天皇行幸が養老元年9月だからという理由も根拠に乏しい感がある。伝統行事を見ると、特段老人だけを敬う行事は少なく、節句の行事においては、無病息災(寿)、五穀豊穣(禄)、子孫繁栄(福)が祈られ、老人や家族の長寿、子どもの健康、子宝、豊作など福禄寿が同時に祈られてきたように思われる。だから、あえて敬老だけの行事はなかったといえる。すると敬老の日は、何月でもよかったということになる。
何故15日なのか。旧暦15日(望月)が受け入られやすかったとも思われるが、9月なら重陽の節句の9月9日でもよかったと言える。15日の理由が不明である。
結局は、敬老の日の起源について、1947年9月15日の野間谷村の敬老会以前には遡ることができなかった。さらに深層の情報を探れば、新しい事実が得られるかもしれない。