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弥次喜多の五右衛門風呂
弥二喜多が五右衛門風呂の入り方が分からなくて雪隠の下駄の履いて入った話があるように、江戸っ子には五右衛門風呂はなじみがないものだった。江戸の庶民は、火事が多いこともあり、家風呂は置かずに、もっぱら銭湯を利用していた。
石川五右衛門が釜茹でになったことから鉄窯を使う風呂を五右衛門風呂と称するが、その起源は鎌倉時代に重源上人が宋でみた鉄湯舟に遡るとされ、もっぱら西日本で多く利用された。一方、東日本では、鉄砲風呂という風呂桶の横に鉄管を通したものが使われていた。
東京育ちのわたしは、小学校の夏休みに埼玉の母の田舎に行ったが、そのときに初めて五右衛門風呂に入った。母方の伯父の住まいが川越の蓮光寺にあった。曹洞宗の寺で近くには新河岸川が流れ、周囲に水田が広がっていた。立派な鐘楼門が特に印象的である。境内に徳川家康が鷹狩りに来たという説明板があった。夜になると周囲は真っ暗闇で、縁側に座ると暗闇の中から虫の音が聞こえてきた。五右衛門風呂が庫裡のうす暗い土間のような風呂場に置いてあった。ほのかな明かりを頼りに土間を歩いて風呂に近づいた。湯船の蓋を触ると浮いているのが分かった。その蓋に身体を乗せて鉄窯まで沈ませるのだが、子どものわたしのために母が先に入り、蓋を沈めてくれた。途中で蓋がぐらっとひっくり返りはしないかと怖かった。
五右衛門風呂には、鉄窯の上に桶を乗せた構造のものとすべて鉄窯でできている長州風呂と言われるものがあるが、鉄が安価になるにつれて長州風呂が普及したと最近知った。蓮光寺の五右衛門風呂に木桶があったかどうかはっきりと覚えていない。
わが家にも檜の木桶の風呂があった。鉄砲風呂の流れをくむもので、檜の風呂桶の下横に鉄管の窯がついていて、石油バーナーに替わる迄は薪を燃料にしていた。湧き上がるまで目が離せなかった。水入れは、台所にある井戸から樋を伝わって風呂桶に水を入れられるようになっていた。水を運ぶ苦労はなかったが、それでも井戸水をポンプで汲み上げるのは労力だった。風呂の入り方は、その後のユニットバスと全く変わることはなかった。だから、銭湯しか知らない江戸っ子にとって五右衛門風呂がいかに珍しいものであったか、十返舎一九が弥次喜多に下駄を履かせて五右衛門風呂に入らせたい気持ちがわかる気がするのである。
2023.1.4
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