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フエゴ島の先住民 ウシュアイアを旅して

数年前に世界最南端の町ウシュアイアを旅した。世界の果て博物館(Museo de Fin del Mundo)の外構にあるパネルに半裸の先住民の写真が展示してあった。フエゴ島の先住民は、yamanas(ヤマナ、ヤガーンともいう)というとある。私は、展示を見ているうちに、次第にこの寒冷の地に適応して半裸の生活を送る人びとに惹きつけられていった。

最終氷期の末期にベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に渡った時期については、いくつかの異なる記述が見られる。
①今から1万1500年前にベーリング地峡を渡りアメリカ大陸にやってきた人類は、1千年かけて1万500年前に南アメリカ大陸の南端までたどり着いた(『ニュートン別冊 日本人のルーツ』)。
②最終氷期の後期(1万8000年前 - 1万5000年前)にベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に着いた(ウィキペディア)。
③アメリカ大陸に渡った時期は、約1万4000年前ごろと考えられている(「世界史の窓 ベーリング海峡」)

フエゴ島の先住民は、極北から温帯の地を通り、熱帯や高山帯を過ぎて、再び温帯から極寒の地にたどり着いた。どうして暮らしやすい温帯や熱帯を経て再び南の寒冷地に行ったのか、こんな疑問が湧いてくる。人類の移動の解釈には、追い出され説や冒険心説などがある。部族間の抗争に敗れて仕方なくやって来た人たちなのか、未知の世界にあこがれる本能ともいえる冒険心・好奇心に動かされてやって来た人たちなのかで随分とそのイメージは違ってくる。

そして、最大の驚異は寒冷の地で半裸の生活をする先住民の環境適応力であった。なぜ半裸なのか?これは筆者の仮説である。1万年前には、南北アメリカ大陸の先住民には衣服を身に着ける文化はなく、一様に半裸であった。人類が大陸全体に生き渡った後に文明が起こり、着衣の生活が始まった。フエゴ島の人たちは、文化的な後退をしたわけではない。

マゼランの艦隊が初めてフエゴ島を通過した時、島にたくさんのかがり火が見えたためにティエラ・デル・フエゴ(火の土地)と名づけた。そのフエゴ島のウシュアイアの世界の果て博物館にある展示パネルには、採集狩猟民ヤマナについて次のような説明が書かれていた。

「ヤマナの男性と女性の間の役割分担は、他の狩猟採集社会ほど顕著ではなかった。 アシカ漁など、グループにとって多くの非常に重要な仕事は、共同責任で行われた。子供の世話、火の管理、ボート漕ぎ、海岸近くでの釣りなどの特定の仕事は、伝統的に女性が担っていた。 一方、男性は陸の上で狩猟をし、薪を入手したり、武器などの道具を作る役割を担っていた。」

ヤマナの人たち

「ヤマナ族の基本的な社会単位は家族であり、通常は成人男性、その妻(1 人から 4 人)、その子供たち、および親しい友人や親戚で構成されていた。頻繁に会合が行われたが、家族以上の氏族や部族といった大規模なグループの会合は時々しかなく、各家族は孤立して暮らしていた。家族たちは、小規模ながらも自給自足をしていた。」

ヤマナの人たち

「彼らの住居は、家としてよりも『テント』として機能し、夜の避難場所であり、日常の生活は屋外で行われた。枝と幹で作られた住居は、直径約4メートルと小さくて、海岸近くに建てられていた。家族たちは火の周りに集まって暮らしていた。 彼らは同じ場所に長く留まらず、別の係留地に移動しても小屋は破壊されずに残されていたので、それを誰でもが再利用できた。」

ヤマナの住居

民族学者マルティン・グシンデ( Martín Gusinde)によると、ヤマナの平均身長は157cm、胴に比べて足が短く、腕が長い。大きな頭、短い首が特徴である。彼らの胴は広く、胸筋が非常に発達していて、女性たちの胸筋も舟を漕ぐことによって発達していた。彼らは、半裸の生活をしていたが、焚き火、風よけ住居、身をかがめての生活スタイルによって寒冷地に適応した生活をしてきた。体温の消耗を抑えるために完全に立って歩くことはなかった。現在の研究では、アシカがヤマナの重要な栄養源(たんぱく質とカロリー源)であった。(Museo Maritimo de Ushuaia: ウシュアイア海洋博物館の展示説明から) 

ヨーロッパ人が移住してから、ヤマナは絶滅の道をたどった。ヤマナは決してヨーロッパ文明に適合することはなかったし、生活様式を変えることはなかった。ヨーロッパ人は、森林を伐採し、金鉱を採掘し、毛皮と油を取るためにアシカ狩を行い、フエゴ島の資源を略奪した。ヨーロッパ人は決してヤマナを絶滅させようと意図したのではないが、彼らは衰退の道を辿った。アシカは、ヤマナの重要な栄養源だった。病気、食糧、土地争いがヤマナの絶滅に拍車をかけた。1884年には麻疹のために人口は以前の半分に減った。1886年には肺炎と結核が出現した。かくして人口は、1884年に1000人、1886年に397人、1897年に 110人、1925年に45人と激減していった。(Museo Maritimo de Ushuaia: ウシュアイア海洋博物館の説明展示から)

現在、純血のヤマナはいない。極限の地に1万年の間適応してきた人々が、外来からの異民族の侵入により瞬く間に消えて行った歴史をこのウシュアイアの旅で学んだ。


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